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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『ONE』

ONE(ワン) (集英社文庫)ONE(ワン) (集英社文庫)
(1996/12/13)
リチャード・バック

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パラレルワールドとショウペンハウア

 現代の物理学、特に量子論が、「パラレル・ワールド(併行世界)」というものの可能性を見出していることを私が知ったのは、つい数年前のことだった。科学雑誌の『ニュートン』で、「誰にでもわかる量子論」みたいな記事を読んだのだ。

 筋金入りのド文系脳である私には、ナントカカントカのネコなどといわれても、わかったような、わからないような、という感じではあったし、私的には、やはり「神はサイコロ遊びをしない」というアインシュタインの方に惹かれはするのだが、考え方は面白いな、とも思った。

 で、この『ONE』は、その「パラレル・ワールド」を題材にした作品だ。勿論これは物語であり、科学論文ではないから、「パラレル・ワールド」というものが実際にあり得るのか否かということの科学的な論証など一切抜きに、いきなり一個の否応ない現実として、その不可思議な世界を主人公たち、ならびに読者の前に突きつける。

 あらすじは、というと、飛行艇でロサンゼルス空港に向っていた壮年期のパイロット夫婦(リチャードとレスリー)が、突然、閃光とともに超次元的な世界に迷い込み、そこから眼下に広がる夥しい数の「パラレル・ワールド」に次々に舞い降り、それぞれの世界で、自分の分身たちの、自分とは異なる人生を目撃し、そこから、「パラレル・ワールド」とは実はひとつ(ONE)の事実、ひとつの「愛」の、数限りない様々な姿に過ぎないのだ、ということを知るに至る、というものだ。
 
 つまりそこに何を見出していくのか、というのが物語の骨子であるから、「パラレル・ワールド」というものはここでは主題ではなく素材であり、主題は、もっと「倫理的」なものだ、ということができるだろう。そして私は、この物語において語られる倫理観には、ショウペンハウアとの共通点が多くあるように感じられた。

 人生において、日々刻々繰り返されるものであるところの、選択、というもの。その度に世界は分岐し、「併行」する別世界が、同時的に生まれていく。結果、それぞれの様々な人生を送る、様々な「私」が生まれる。レスリーと出会わない人生を送るリチャードも、米空軍パイロットとして1962年にキエフに水素爆弾を落とすことになるリチャードも皆、同じリチャードなのであり、そればかりか、モスクワでイワンとして生活する男や、はてはフン族の王アッティラに至るまで、皆、同じひとりの人間の、数限りない選択のはての姿だ、ということを、主人公たちは知る。

 それはつまり、究極的には、全ての大元はひとつなのだ、ということを知る、ということなのであり、それによって、互いに争うことやいがみ合うことの無意味さを知り、さらには、選択によっては、ひとは如何様にもなり得るのだ、という可能性を見出すことができるのだと、この物語の主張とはそういうことなのであり、だからして、その「大元」を「愛」と名付けたのだと、私は読んだ。

 そして一方のショウペンハウアの倫理学は、というと、かなりざっくりした見方になってしまうが、この「眼に見える世界」とは、我々という「主体」が勝手につくりあげたマボロシに過ぎず、本当に「ある」といえるのは、我々を我々たらしめているところの「意志」なるものだけなのだ、という彼の形而上学を前提として成り立っている。

 つまり、この世というものは、ある盲目的な衝動ともいうべき「意志」が、「私」という主体に表象させているものに過ぎないのだから、客体として自分の外に認識されているものも、いわば「私」とその本質、あるいは「出所」は同じなのである。だから、それら「客体」の一部に過ぎない「他者」と争うことなどは愚の骨頂であり、もし、「「我」は「彼」である」というこの形而上学的真理を認識し得ていたのならば、ただ静観することだけが「正しい生き方」であることは明白である、と、まあ私流に解釈するならば、こんな具合である。

 (彼の哲学に、仏教的なものを見出すことは容易だし、実際彼も、多いに仏教思想から影響を受けていることを自ら認めている。この辺りのことも考え合わせると、「パラレル・ワールド」を考える上で、もっと興味深い視点が得られそうなのだけれど、煩雑をさけるために今回は割愛する。でも、面白そうだなあ。)

 「生きる」ということへの、積極性という点において決定的な違いのある両者の考え方ではあるけれども、世界というものを、もしくは世界というものの多様性を、実はたったひとつの「何ものか」の、多種多様な「あらわれ方」の違いによって説明し、その多様性を超えて、根源的な「一なるもの」を観じることに、ある倫理観の論拠を見出そう、という姿勢には、かなりな共通点を持つふたつの考え方だと、私は思う。

 だとすると、この『ONE』という作品の倫理観、というものは、量子論という比較的新しい考え方による(多分に「通俗的」な解釈ではあるが)、「パラレル・ワールド」というものを「形而上学的」に前提しているにもかかわらず、本質的には実はそれほど新しいものではない、ということになる。勿論こういうものは、新しければよい、という類いのものではないことはいうまでもないが。ただ、それが「19世紀的」であるとするならば、当然、それに対する「反論」もまた、すでに唱えられていることになる。

 ショウペンハウアの倫理学を、端的に言い表す言葉として、「同情」という言葉がよく用いられる。「我」と「彼」との、形而上学的な同一性を想う、というところにその本質がある、ということで、なるほどこれは適切な言葉だと思う。そして、この「同情」に基づく倫理学というものを真っ向から否定しようとしたのが、他ならぬ、ニーチェだった。

 「神は死んだ。人間に對する同情の故に、神は死んだ。」
  (『ツァラトストラかく語りき』 第二部「同情者」 竹山道雄訳)

 ショウペンハウアを否定し、乗り越えていくことは、ニーチェの宿命ともいえるものだった。このツァラトストラの言葉は、ショウペンハウアを強く意識して書かれたものだとみて大過なかろうと思う。

 世界の根源というものが「愛」であろうと「意志」であろうと、そしてまた、「表象」の世界が客観的な現実存在としてあろうとなかろうと、実際に我々が実感できるものとして確かなのは、認識主体の違いによって、世界は違ってみえる、ということだ。この「違い」を「錯覚」だとして無視しようとしたのがショウペンハウアだった。しかしこの事実は、むしろ全的な相互理解というものの困難、あるいは不可能をこそ証明するのではないか。

 私は、ニーチェの所謂「神の死」というものを、このように解釈した。「神の視点」という全ての人に共通な視点、即ち皆で共有できる価値基準なるもの。「我」と「彼」との形而上学的同一性の認識。そんなものこそが幻想であり、脳裏からぬぐい去るべきものなのだと、「神の死」という象徴的な言葉によって宣言したのだ、と。そして付言するならば、私はこの「神の死」の宣言によって、我々ひとりひとりが、どれほど孤独な存在として、寄る辺なくこの世界に投げ出されているのか、それを思い知らされ、戦慄したものだった。

 『ONE』の感想のつもりが、なんだかニーチェの話になってしまったが、勿論、物語としてこの本はとても良くできているし、その倫理観に賛同するのであれしないのであれ、いろいろと考えさせられる場面も多くあった。

 特に、主人公が、空軍の若きパイロットとしての自分に対し、戦争という国家的出来事における個人の責任について問いかける場面。「命令されて」、「軍人の義務として」、何十万の市民が生活する街の真ん中に核爆弾を投下するとき、さてそのパイロットには、何十万人の命を一瞬にして奪ったことの責任はないとえるのかどうか。あるいは、「やつら」から自国の平和を守るのだと息巻いていた男に、さて、実際に戦争が起こってしまったことについて、責任がないといえるのかどうか。幸いなことに、戦争に直接関与せずにすんでいる今のうちに、我々はよく考えてみるべきことだろう。

 あるいはまた、ル・クレールと出会う場面。そこでは宗教というものの「負の側面」が語られる。中東の問題などは、我々に宗教的な対立というものがいかなる悲劇を生み出しうるかを教えてくれる。しかし、争いの元となるからといって、全ての宗教を否定することが、争いの根絶に繋がるのだろうか。宗教の存在によって避けられてきた争いというものもあったはずではなかったか。

 宗教の問題、というと、我々日本人にはどこか他人事のように感じられるが、それは本質的には「異文化間の争い」と同じ構造をもっているのであり、善かれ悪しかれこれほど「グローバル化」の進んだ現在にあっては、我々にとっても決して他人事とはいえないのではないだろうか。中国、あるいはロシアという異文化の大国と、我々は否応なくご近所付き合いをしなくてはならないのであるから。

 こんな具合に、この物語には様々な現代的問題意識が込められている。このリチャード・バックのものを読むのはこれが三作品目であるが、この作家は、単に問題を提起するのではなく、「私はこの問題についてこう思う。では、あなたは?」というような問いかけをしてくるように感じられ、好ましい。

 文学的完成度、という点では私は『イリュージョン』や『かもめのジョナサン』のほうを高く評価したいが、「今そこにある危機」についての具体的な問題に取り組んでいるのは、間違いなくこの『ONE』だろう。どれを、ということではなく、この三作全てを読み通して、リチャード・バックという作家の考え方に近づいていく、というのが、一番よい理解のしかたなのかもしれない。

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『イリュージョン』 自由論

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コメント


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「ONE」からはそれますが、

 素晴らしい洞察です。
ショーペンハウアー(ウパニシャッド)とニーチェ(パーリ語経典)は東洋思想に関連が深いです。
 仏教とニーチェも、つながりがあります。
それは、「反キリスト者(アンチクリスト)」のなかにも書かれています。はじめは、道教か回教の思想をまちがえて、仏教として捉えているのではないかとおもっておりました。
 しかし、最近調べた書籍のなかに、パーリ語の仏教経典との深い関連性がみつかりました。


kappamama | URL | 2012-04-02(Mon)22:45 [編集]


Re:kappamama さん

kappamamaさん、こんにちは。

私はどうも、「考える」ということを西洋的な方法で始めたらしく、いまだに、東洋思想よりは西洋的な価値観、世界観のようがしっくりくる、というなかなかメンドクサイ東洋人です(笑)。
ショウペンハウアやニーチェ、あるいはユングといった、西洋的視点から東洋思想をみる視点をもった西洋思想が好きなのは、多分、そのせいかと思われます。
パラレル・ワールド、などという考え方も、やはり大いに東洋的であり、そうしたものを西洋人が扱っている、という点で、この『ONE』は面白かったです。物語としての、つまり文学的な完成度がそれほど高い作品だとはいえませんが。
この作家のものは、読者に考えさせる、ということが、その最大の特徴である気がします。

コメント、ありがとうございました。

静磨 | URL | 2012-04-04(Wed)12:11 [編集]