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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

一八五七年、パリ  #1

 はじめに

 このブログも、いよいよ年明けには一周年を迎えることになる。初めの頃には誰にも見向きもされなかったのだが、最近では、たくさんの方々が足繁くご訪問くださり、拍手だとか、コメントだとかをくださる。飽きっぽい私が、こうして一年間、ゆっくりながらも駄文を綴ってこられたのも、ひとえに、ご訪問くださる方々の励ましのおかげだと、心から感謝をしている。社交辞令などではなく、本当に。

 だが一方において、心残りがない訳でもない。色んな作家の、色んな作品について書かせていただいてきたのに、結局、ボードレールについてはひとつも書かずにここまで来てしまったのだ。

 私はこの詩人を、近代文学のみならず現代文学においても、あるいは、現代美術全体においても、と言い換えてしまってもよいのだが、最も重要な人物だと思っている。身の程も知らずに、様々な文学作品について、あれこれつまらないことを書かせていただいている以上、さて一体、どういう価値観から判断を下しているのか、それを明らかにするのは、いわば私の義務であると思う。だからこそボードレールについては、必ず書かなければ、と思い続けてきたのだが、やはり、重要視しているだけに難しいものがあった。

 そこで、一周年記念企画として、このブログを始めるずっと以前に書いたものなどを、引っ張り出してみることにした。それはなんと、小説形式で書かれているのだが、今のところ、私がボードレールについて書いたものとしては、一番体裁よくまとまっている、とは思う。勿論、それも程度の話ではあるが。
 
 ということで、これから三回にわけて、皆様の御目を汚すことをお許し願いたい。小説、とはいっても、無論本来的な意味での「ドラマ」とは別種のものとしてお読みいただきたい。あくまでも、小説形式のボードレール論、あるいは詩論のごときものとして書かれたものなので。まあ、年末年始に、テレビの特番もつまらないし、なんだかヒマだなあ、というときにでも、読んでいただければ幸いです。(なお、段落毎に空白の一行をはさんでいますが、これは画面上での読みやすさを考慮してのものであり、とくに節分け等の意思によるものではありません。無きものとしてお考えください。)


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 一八五七年、パリ   #1


  一八五七年、十一月のパリのある晩、ピエール・デュファイス(*1)は、明かりも灯さないまま、長椅子に身を投げ出していた。身動きひとつせず、暗闇のなかにあってさらに視ることを拒むかのように、かたく両眼をつむって。しかし、カフェ・リシュから戻ったままの姿、大げさなネクタイや、たっぷりしたフロックコートもそのままの彼の姿を、じっとみつめる「眼」があった。背後からの、鋭く、容赦のない視線。
(*1)「シャルル・ピエール・ボードレール」のミドルネームと、彼の母親の旧姓「デュファイス」を組み合わせた名前。ボードレール自身も、この筆名を用いたことがある、らしい。

 その「眼」の持ち主が、他ならぬ彼自身だということ。その仮借ない現実こそは、今、彼を苦しめる全てだった。彼は疲れていたし、酔ってもいたから、すぐにでも眠りたかった。しかしその「眼」は決して酔わず、決して眠りもしないことを、彼は知りすぎる程に知っていた。いつからだろうか、彼の背後に「眼」が現れたのは。リヨンの王立中学の学生だった頃だろうか。ことによると、それ以前かも知れない。もう三十代も半ばを過ぎた彼だったから、この「眼」のある限り、自分は本当に酔うことも、ぐっすりと眠ることもできないのだと、充分に知っていた。

 それどころではない。かつて二月革命に、社会主義者としてというよりは、むしろ暴力と気狂い沙汰に惹かれて加わった彼ではあったが、あの銃声と血の狂乱の最中にあってさえ、「背後の眼」は冷たく冴えたままだった。この夏のアグラエとの色恋においてもそうだった。彼は、ついに目的に近づいたと思われたその時に、「眼」に情熱を冷まされ、結局身をひいてしまった。「眼」は彼の支配者だった。「眼」の許しなく彼には何ひとつできなかった。家具つきホテルを渡り歩き、常に金に窮し続ける、この禁治産者としての日々から抜け出し、あのいまいましい法定後見人を追い払う方法を、彼はもう十年も前から知ってはいたのだったが、それすらもできずにいた。「眼」は宿命であり、「眼」は絶対の律法だった。

 否、むしろそれは本物の彼だった。天性の、最も危険な意味での詩人としての本性だった。彼自身が、かつて様々な芸術的天才達の内に見出した、ミューズの息子たるを証しする見紛うかたなき資質、それこそは、この「背後の眼」に他ならなかった。

 そう、彼は詩人であり、しかも第一級の詩人であると自負していた。それはつまり、ユゴーやゴーティエと同じく詩人であるのみならず、ホメロスやヘシオドスと同じく詩人である、ということだ。だから彼は、帝政ローマに生まれたならばウェルギリウスになっただろうし、ルネサンス期のイタリアに生まれたならペトラルカになっただろう。だが彼は、一八二一年のパリに生まれた。だから彼はパリの詩人になった。

 一七八九年の乱痴気騒ぎよりこのかた、王政だの共和政だの帝政だのと、幾つもの政体のあいだを気まぐれに次から次へと渡り歩く娼婦、それがパリだった。だから、同じく詩人であるといっても、ウェルギリウスのように詩人であることはできなかった。パリの詩人は、あくまでもパリの詩人として生きなければならない。

 だが、この「蟻のように群集のうごめく大都会」で、詩人として生きるということは、何とみじめで、腹立たしく、耐え難いものなのだろうか。眼にみえる彼の姿とは、つまりこのあまりにも散文的な小世界と、詩人としての本性との接点に顕れた、不可思議な、ぎこちない、無理のある妥協の姿に他ならなかった。はるか昔、世界に詩情があふれていた頃、もっと正確にいうならば、今よりも人々の内に詩的なものに対する感受性が強く息づいていた頃には、詩人はただ全的に詩人であればよかった。それだけで詩人は生きられた。しかも、人々の称讃さえその身に受けながら。しかし近代都市の内にあってはそれは不可能だ。雑踏のなかに、竪琴を抱いたオルペウスが突っ立っていたならば、この神話的詩人は、人々に讃えられる間もなく病院に放り込まれることだろう。詩人といえども、まず近代人として生き、生活しなければならないということ。近代詩人の悲劇とは、まさにこの点にあった。

 それはつまり、自身の本来的、生来的ありかたとの乖離を意味したからだ。人々の間にある彼、辛辣な皮肉屋であり、市民的な秩序を軽蔑し、偏狭で依怙地なブルジョア的道徳の全てを否定する冷笑家としての彼の姿は、あくまでも彼一流の処世術のかたちであり、ペルソナであるにすぎなかった。その仮面からして病的だと、他者の眼には映ったのかも知れないが、それでも、それは彼がこのパリの内にあって、何とか都市生活者であることを可能にするために、苦労して造りあげたかりそめの姿に他ならなかった。本来あるべき姿の彼、詩人としての彼は、その「背後」に隠された。そうしなければ生きられなかったからだ、このあまりにも反美的、反詩的な世界では。だから、彼の敵対者達が、彼の態度に気取りやわざとらしさを見出したのは正しいことだった。それをもって彼を攻撃するのは誤りだったとしてもだ。彼には確かに気取りやわざとらしさがあった。しかしそのことを、一番よく知り、意識していたのは彼自身だった。彼には、背後からみつめる「眼」があったのだから。

 他者の眼にさらされる彼と、「背後の眼」としての彼。彼の実存なるものが、一体そのどちらにあるのか、彼自身わからなくなっていたが、少なくとも、彼の自意識は、「背後の眼」にその重心をもっていた。本来ならば、ただ世界を、彼を囲繞する客体だけを眺め渡すはずだったその「眼」の視界に、自身の姿を、世界と対峙する主観の一部をも割り込ませ続けなければならないこと、それが近代詩人としての彼の宿命だった。この主体の分裂と、その結果生まれた自意識過剰のわざとらしさこそは。それは彼に、自身の人生に「生きにくさ」を覚えさせた。常に舞台の上にあり、観客を前にして役を演じ続けているような緊張感、あるいは違和感を覚えさせた。

 自然なもの、自発的で自己完結的な何ものも、自身の内に感じられないままに生き続けること、それは苦しいことだった。この心安らぐ場所をどこにももたない永遠の迷子のような不安、決して他者には理解されない自己分裂からくる心的疲労を、ただひとり担い続けなければならないこと、それは苦しいことだった。彼は幾度となく自問した、この苦しみとは、一体耐える価値のある苦しみなのかと。そしてこの苦しみ多き人生、否、ただ苦しみの連続に他ならない人生とは、ただちに終わらせるべきものでしかないのではないのかと。実際、彼は一度自殺をはかった。しかしそれも結局未遂に終わった。結局自殺ですら、わざとらしいポーズ以上の何かではあり得ないものとして終わった。彼には、自分の死ですら全的に自分のものとは思われなかった。その自意識は、自分の死にすら、夢中になるということがなかったのだ。全ては冷笑で終わった。自虐の嘲笑で終わった。彼は彼のままに生き続ける他はなかった。その苦しみを苦しみ続ける他はなかった。

 だがそれは、彼が詩人として生まれついてしまったがために、不可避的に苦しまなければならない苦しみであるばかりではなかった。それは、彼が詩人であり続けるために、どうしても「必要な」苦しみでもあった。だからこそ、それは宿命的といえたのだ。彼は「不運にも」十九世紀のパリに生まれてしまった詩人であるのみならず、まさしく十九世紀のパリの「ために」生まれた詩人であった。この劇的な変化の時代にあって、その根底にある詩情を、すなわちある永遠性を、これまで誰も視たことのない新しい形で見出すこと、それが彼の詩人としての役割だった。「大詩人たること、しかしラマルチーヌでもなく、ユゴーでもなく、ミュッセでもないこと」(*2)とは、つまりそういうことだった。そのために、彼はパリに生き、パリを苦しまなければならなかった。その「背後の眼」をもって、パリを注視し続けなければならなかった。そこにあふれる欺瞞を、軽薄さを、煩雑を、醜さを、その身に感じ続けなければならなかった。彼自身、そのパリの群集の一員として生き続けることによって。パリは、彼の詩に絶対に必要なものだった。彼の詩神はヘリコンの山にはいなかった。パリにいた。薄汚いカフェに、街角に、娼婦宿にいた。だからそこで生きなければならなかった。どんなにそれが彼を責め苛んだとしても、だ。「背後の眼」は、そこにこそ美を、彼の詩を見出そうとしていた。「現代」における詩の可能性という、全く新しい詩の形を。あるいはこういうべきだろうか。詩というものの、「現代性(モデルニテ)」を、と。
(*2)ポール・ヴァレリー、『ボードレールの位置』よりの引用。岩波文庫版『悪の華』巻末に収録されている。

(次回に続く)

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