FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

旅のおもいで・出会い その2

(この記事は、本当はもう少し後にアップするつもりだった。しかし、記事に登場する友人Yが、とある手術のために入院することになってしまった。病院では、インターネットの閲覧もままならないだろうと思い、我々ふたりにとって共通の思い出を扱ったこの記事を、予定を早めて彼の入院の前にアップすることにした。Yは、このブログの読者でもいてくれているのだ。)

シモちゃん

 旅は道連れ、などという言葉もあるが、実際に、旅先で出会った、全く初対面の人と、何日間かの旅を共にする、ということは、私の場合それほど多くない、というよりほとんどない。

 特にオートバイでの一人旅のときには、もう最初から「ひとりで旅をするのだ」と決めてかかっているので、同宿の相手と夜中まで話し込むことはあっても、「一緒に行きませんか」とは間違っても私からはいわない。一人旅の寂しさを感じることは勿論ある。しかし一人旅の自由気ままさを、そのために失おうとは簡単には思えない。

 オートバイでの旅には、自分のペース、というものがあるのだ。一日の走行距離にも、休憩のタイミングにも。それはライディングのキャリアや技術に大きく左右されるので、ぴったり合う相手など容易にみつかるものではないのだ。

 しかし、道連れができた、ということが全くない訳ではない。地元の仲間らしきマスツーリングのグループにまぜてもらったこともあるし、ベースキャンプから初対面の人と二人乗りで出掛けたこともある。そして今回は、その中でも特に印象深い出会いについて、書いてみようと思う。

 1993年の夏の、私の初めての北海道ツーリングは、一人旅ではなかった。連れがいた。中学二、三年のときの同級生で、高校も同じだった友人Yが一緒だった。ただ、当時彼は関西の大学に通っており、そちらに下宿していたために、地元静岡にいた私と出発のスケジュールを会わせるのが面倒だったので、話し合って「現地集合」にしよう、ということになった。

 8月10日の午後三時に、長万部駅前で待ち合わせ。決めたのはそれだけだった。携帯電話の一般的な普及などまだまだ先のことであった当時としては、なかなかのギャンブルだった。旅先の、全く知らない土地のこととて、何が起こるかわからないからだ。一応、なにかあったらお互いの実家に連絡する、という決め事はあったが、しかし会えずに終わる可能性は充分あった。

 私は静岡を8月7日に出発し、その翌日の8日には北海道に上陸していた。9日は道南をうろうろして、10日の約束の時間ぴったりには、もう長万部駅前で一服していた。長万部駅はちいさな駅なので、いればすぐにわかるはずなのだが、三時を過ぎてもYの姿はなかった。ただ、Yは昔からの遅刻常習犯なので、私はそれほど心配せずに待っていた。

 三時を二十分ほど過ぎた頃、駅前の小さなロータリーに、二台のオートバイが入ってきた。その内の一台が、ようやくやってきた友人Yだった。彼もまた私をみつけ、近づいてきた。だが、もう一台も一緒にやってくる。そして二台ともが私の眼の前に止まった。

 見知らぬバイクと、ガタイのいい乗り手。それが、シモちゃんだった。津軽海峡を渡るカーフェリーでYと一緒になり、ふたりともカワサキのエリミネーター400というバイクに乗っていたこともあって意気投合し、しばらく一緒に走ろう、ということになったのだ、と説明を受けた。

 正直なところ、初めてのロングツーリングということで、見知らぬ土地で少々心細い思いをしていた私は、ようやくYに会えたばかりか、思いがけない仲間までひとり増えたことを、とても嬉しく思った。そしてその日は洞爺湖畔まで走り、そこでキャンプしたのだったが、その間にはもう、シモちゃんの愛すべき人柄が明らかになった。

 大きながっしりとした体格と、いかにも人の良さそうな眼をしたシモちゃんは、仙台の出身であり、歳は当時二十一歳で私やYと同い歳だった。人なつこい明るい性格で、誰とでもすぐに親しめる、そんな男だった。シモちゃんが、あの旅そのものを変えてくれた部分は、決して小さくなかったと思っている。

 当時、二十一歳の夏の私は、酷くメランコリックな時期にあった。基本的には楽観論的であり、人間の本質は善きものであると信じ、「善意思」だとか、「内なる道徳律」だとかいうものを素直に無邪気に信じていた少年が、世間というものをそろそろ知りはじめ、そしてまた自身の中にも狡さや卑劣さを見出し、かつて自分が信じていたものを疑わざるを得ない現実、というものとぶつかり、痛い目にもあい、結果、逆に人間不信だとか、厭世的な気分だとか、悲観論的な価値観だとかを抱かされるに至った、あの頃の私はつまりそういう時期にあった。

 さらには、失恋、もしていた。ミュッセの『世紀児の告白』の主人公とともに、「人間が恋において嘘をつけるとは思っていなかった」私は、また彼とともに、恋の相手が「私を愛するのをやめたということではなくて、私を欺いたこと」に傷ついていた。つまり簡単にいうと、人間づき合いというものに嫌気がさしていたのだ。

 だから、私にとってのあの旅は当初、地元静岡での人間関係だとか生活上の雑事だとかから逃れる意味が大きく、できるだけ他人との関わり合いを避けよう、という気分が強かったのだ。だが実際に旅を始めてみると、やはり見知らぬ土地ではひどく心細いものだ。
よって前述のように、私はYやシモちゃんと合流できたことを喜んだのだったが、シモちゃんは、単に道連れになってくれたということにとどまらず、私の「人間からの逃避としての旅」に、「社交性」という、全く逆向きの力を与えてくれたのだった。

 旅というものは、自分の生活のある場所からは遠く離れるものであり、生活のなかの人間関係とも遠く離れるものではあるけれど、しかし、砂漠だとかジャングルの奥地だとか南極だとかといった、全く人間のいない場所に行きでもしない限りは、必ず、人間というものとは関わり続けるものだ。

 それがつまり、旅先での出会い、ということになるのだが、その出会いをどう捉えるか、ということになると、勿論、人それぞれ、ということになる。できる限りひとを避け、ひとり黙々と旅を続けるというひともいるだろうし、場合によっては、そうあらねば旅そのものの意義が失われる、という類いの動機付けの元にある旅もまたあり得るものだ。ただ、前述のようにどうあがいても国内旅行である限りはひとと関わらない訳にはいかないのであり、ならば、その出会いというものを積極的に受け入れる方向で旅を進めていくのは、旅を「楽しむ」ためにならば理にかなった方法だといえよう。私は、シモちゃんにそのことを教えてもらったのだった。

 いや、彼の具体的実際的な行動をみて、それを学んだ、というのではない。例えば、たまたまフェリーで出会っただけの相手と、すぐさま一緒に旅をすることにしてしまうような彼の「姿勢」を、学んだのだ。その後、つまりこの最初のツーリングの後にも、また私が北海道を旅しようという気になり、そしてその旅を楽しむことができたのも、この「姿勢」を、シモちゃんほどの積極性を持たない形であったとしても、学ぶことができていたからこそのことだと、私は信じている。

 そして、そういう「姿勢」はまた、旅の最中のみならず、その後の日常生活のなかでも、私をよい方向に導いてくれたように思っている。

 世の中は、そしてそこで出会う人びとは、かつての私が思っていたような「善きもの」ばかりではなかったかもしれない。だが、人びとが私の思っていたような人びとではなかったからといって、それが何であろうか。確かに善人ばかりではない。しかし悪人ばかりでもないのだ。皆、それぞれ、善人であり、悪人である者として生きている。私自身も含めてだ。しかも、その善悪をはかる基準そのものからして、ひとそれぞれ違うものなのだ。

 私はようやく、それを受け入れるための準備ができたのだ。そう、とにかくまずは人と関わろうという「姿勢」を身につけることによって、だ。実社会というものに幻滅し、人間不信になりかけて旅立った若者は、こうして、少しばかり成長して旅から戻ることができた。その成長を、つまりはシモちゃんが助けてくれたのだった。

 勿論、あの旅をきっかけに、がらりと変わることができた訳ではない。成長というものは、そんなに急激なものではない。私が、その「姿勢」を、実際に日常生活のなかに生かすことができるようになるためには、もうすこし苦しむことが必要だった。自分の排他的、独善的な「理想」の過ちを認め、他者を受け入れることの必要を学ぶために、私には異常なほどの読書をこなす必要があった。

 あの最初の北海道ツーリングが終わってからの二年ほどの間に、私は、私のこれまでの人生の内で最も沢山の本を読んだ。そして、自分がシモちゃんと出会ったことの重要性を知ったのは、その後のことだった。

 シモちゃんとは、結局8日間を共に過ごした。当時の日記を調べると、確かに8日間なのだが、何だか、もっと長い間、少なくとも二週間は一緒にいたような印象がある。彼は一度、静岡に遊びにきてくれた。Yの家に泊まり、私たちは一緒に静岡市内をバイクで走った。彼の住む仙台にも行きたい、などと、当時はYと話したものだが、今日に至るまでそれは果たされていない。

 静岡で会ったのが最後で、今はもう、彼とは音信不通である。

スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する