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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『69 sixty nine』

69 sixty nine (集英社文庫)69 sixty nine (集英社文庫)
(1990/09/20)
村上 龍

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89の『69』

 私は、この村上龍という作家のものは、一冊しか読んだことがない。その一冊が、この『69 sixty nine』だ。初めて読んだのは高校生の頃だ。私は村上龍が嫌いだった。この本がどうこうという訳ではない。あの頃この作家は、テレビで『Ryu's Bar 気ままにいい夜』という、トーク番組をやっていた。テレビに出てぺらぺら喋っているような作家を、十代の私は心底から軽蔑していたのだ。

 その私が、なぜこの『69』だけを読んだのかというと、ある友人が貸してくれたからだった。彼の名前はフジワラといった。高校三年生のときのクラスメイトだった。

 私の高校生時代の交友関係は、もう一年生のときに定まり、固定化していた。高校卒業から二十年が過ぎた今となっても、まだ付き合いがあるその友人たちのなかに、フジワラは含まれない。彼との付き合いは、高校三年生だった一年間、それも、学校内でのことに限られた。

 それでも、何だか我々はいつも二人でいたのだった。よくわからない友情だった。何をするでもなく、校内をふらふらしていた。保健室の年配の先生をからかってみたり、中庭でひなたぼっこをしながらバカ話をしてみたり、屋上に寝転んで午後の授業をさぼってみたり。そのフジワラが、ある日突然、この『69』を貸してくれた。

 あるいは彼は、私ともっと親密になりたかったのかも知れない。私には、前述のように親しい友達があった。中学の同級生だとか、小学生のころの少年野球団で一緒だった奴だとかだ。そこには、ある切ろうにも切りようのないような繋がりが、実際その後20年も続くことになるような繋がりがあった。つまり、私には特に努めて新しい友達を得ようという気はなかった訳だ。だから、フジワラとも、まあそのまま親しくなるのならそれでいいし、今のまま学校だけの付き合いで終わるのならそれでもいい、ぐらいの気楽な気持ちで付き合っていた。

 しかし、フジワラはどうだったのだろうか。もしかしたら彼は、私ともっと親しくなることを求めて、自分の好きな本を私に貸してくれたのではなかったのか。

 正直いって、借りて読んだこの本を、当時の私はあまり気に入らなかった。可笑しくはあったが、それだけだった。マンガみたいなものだと思った。まあ、あの頃の私とはつまり、もっとも熱心に読んでいる本としては『新約聖書』をあげるような、そんな高校生だったのだから、気に入るはずはなかったのだが。

 先日、職場へ向けて車を走らせていて、ふと、私はフジワラのことを思い出した。なんの脈絡もなく、出し抜けに彼を思い出して、そして思ったのだった。あるいは彼は、この本によって、私ともっと親しくなりたかったのでは、と。

 そこで再び、約20年振りに、この本を読んでみることにしたのだった。仕事帰り、あまり遠回りせずに立ち寄れる本屋を二件探したがみつからず、ダメモトで最後に古本屋に寄ってみたら、100円コーナーにあった。これはラッキーと、ビンボーな私はその100円の一冊のみを買い求めて帰宅。ひょいとテーブルの上に置いて、夕ご飯を食べ始めると、妻がその本をさっと取りあげて一言。

「これ、買ってきたの?」

 お金もないのにまた本を買ってきたのかと叱られる前に、「一冊だけだよ、ひゃくえんだよ」と言い訳を始めた私に、妻がさらに一言。

「これ、わたしも持ってるよ。」

 バリバリの理系女子で、大学でもカブトガニか何かの研究をしていたという妻は、間違っても「詩を解する」タイプの女性ではない。よって我が家にある雑誌や絵本やマンガも含めた書籍類の、99パーセント以上は私のものだというのに、まさか、彼女が持っていたとは。・・・100円の古本がみつかって本当によかった。無駄遣いが最小限に抑えられたのだから。それでもやはり、なんだかガッカリしてしまったが、私はめげずに読み始めた。(勿論、妻のではなく、自分で買ってきたものをだ。だって、くやしいじゃないか。)

 やはり、内容をほとんど覚えていなかった。登場人物たちが、方言で話すことさえ忘れていた。しかし、意外にも楽しむことができた。最初にこれを読んだ1989年当時、この物語の主人公たちとおなじ十七歳の高校三年生だった私よりも、今の私のほうが、この本を楽しめたとは、一体、どういうことだろうか。

 まずは、作者への偏見がなくなったこと、これは大きいだろう。いまや私は、作者がテレビに出ていようと出ていまいと、その「書いたもの」だけをみて評価することができるようになった、と自分では思っている。少なくとも、「テレビなんかに出てちゃらちゃらしてるヤツが書いたものなんて」などという先入観はもうない。これは、かつての私との大きな違いだ。

 そしてさらに、私も最早四十歳になろうとしており、作中の1969年の十七歳の若者も、1989年に十七歳だった私も、両方共を客観視することができるようになった、ということ。これもまた、ひとつの理由としてあげられるのだと思う。

 高校生だった頃の私は、決して反抗心むき出しですぐ大人に喰ってかかるようなタイプではなく、どちらかといえばあまり大人と交渉を持ちたがらないたちだったが、胸の内では、少なくともサザンやユーミンよりはブルーハーツなどを好むぐらいの、若者らしい反抗心は持っていた。だから、『新約聖書』を好んで読んだ、ということにも、便宜主義的な大人社会(具体的には何も知らないのだが)への、若者らしい倫理的潔癖主義からくる反抗心によるものだった面もあった。『新約聖書』には、実際、反体制的な革命精神がある。

 よって、当時の私はこの本に、ただ、「大人の思い出話」をしか読み取らなかったのだ。大人たちのいう、「あのころはよかった」というセリフ。そこに私は、「お前たちのつまらない青春とは違うのだ」という、現代の若者としての自分たちに向けられた、大人たちの優越感に満ちた視線をしか感じられなかった。

 しかし今の私には、69年の若者と89年の若者とには、時代背景の違いを越えて共通するものがあることを、理解することができる。1989年という時代は、当時の十七歳に、まさかバリゲード封鎖などを求めはしなかった。しかし、戦後の日本というものが、がむしゃらに突っ走った先にいきついた、「徒花」ともいうべき「バブル景気」なる狂乱を、なんともいいようのない拒絶感をもって睨みつけることは求めていた。

 そう、我々世代が、あと一歩というところでその恩恵に浴すことを許してもらえず、ただその「ばか騒ぎ」のツケだけを支払わされたバブル景気だ。当時、その「ばか騒ぎ」を最も客観的に観ていたのは、もしかしたら我々世代だったのかもしれない。「この響宴には、何だかおかしなところがある、間違ったところがある」と、我々は感じ取っていたような気がする。

 「テレビに出てちゃらちゃら」しているヤツらを軽蔑していたことなども、あるいはその現れだったのではないか。「時流に乗る」ことへの反発心というものは、確かにあった。そして我々にとっての「時流」とは、即ちバブル景気に沸く1989年の日本の有様だったのだ。

 だがそのバブル景気の恩恵にどっぷりつかり、「ちゃらちゃら」していた大人たちも、1969年にはまだ十七歳だったのだ。爛熟していく資本主義経済だとか、ベトナム戦争だとか、彼らの反発心の向かう先にある「敵」も、また、その反発心のあらわれ方も違ったかもしれないが、その根本には、やはり深く通じるものがあるのではないか。

 その共通点、とは、つまりが「反抗すること」だ。なぜ、とか、何に、とかいうことは、実はあまり意味をなさない。まさに「理由なき反抗」なのであって、「反抗のための反抗」なのだ。それが、きっと若者というものなのだろう。あるひとつの形をなす大人たちの社会というものに、変化を加えるための新しい風だ。どう変化するのか、それはわからない。しかし変化は常に必要であり、その原動力が、若者の反抗心なのだと私は思う。

 それを、「おもしろおかしく」書いたのは、きっと、村上龍の含羞だろう。誰だって、自分の「若気の至り」というものは、思い出して恥ずかしいものだ。だからといってそれを「おもしろおかしく」茶化してしまうことは、実は私は文学的な方法論としてあまり好きではないのだが、それはそれとして、こうした若者の心情というものを、この小説は実はなかなか上手く描いているのだなと、今回改めて読んでみて思った。

 そして私は、フジワラのことを思う。フジワラは、きっと、もっと素直にこの本を読み、若者の「反抗心」を、少々滅茶苦茶ではあるが形にしてみせた主人公たちに、共感することができたのだろう。そしてあるいは、と私はさらに思う。彼は、この主人公たちほどには派手ではないにしても、私と「何か」をしたかったのではないのか。何だかわからないが、何かへの衝動を感じ、それを私と共有したかったのではないか。

 だとしたならば、「まあ、なかなかおもしろかったよ」という、なんだか気のない感想をしか私から聞けなかったのは、彼にとっては残念なことだっただろう。そして結局、我々の交友のありかたにも変化はなく、そのまま卒業式を迎え、私はそれきり今日に至るまでフジワラとは会っていない。

 しかし、フジワラよ、君が貸してくれたあの『69』を読んだことをきっかけに、私はそれから数年間はローリングストーンズを聴きまくったのだ。だから、私のその後の人生を大きく左右した、あの高校卒業後の一年間(いろいろありまして・・・)を思うとき、私はいつもストーンズの『Brown Sugar』を思い出すし、きっとこの先もずっと、ストーンズの曲を聴くたびに、この『69』を、そして君のことを思い出すことだろう。

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コメント


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私も「69」を読んだのは、高校生の時(90年代でしたが)。その頃特に親しくしていた、とはいえない友人に貸してもらったのがきっかけで(彼女とはこれがきっかけではないけれど、ぐんと近い親友になりましたが)。静磨さんのお話に、自分の青春を重ねて、かなり引き込まれてしまいました。

「テレビなんかに出てちゃらちゃらしてるヤツが書いたものなんて」ってのも、うなづいちゃいました。私もやっぱり、この作品しか読んだことないです。
流行作家さんというイメージが強くて、この作品も読むまでは「チャラチャラしたエロい内容の本では?」と思ってましたか(^^ゞ。真面目そうな友だちが「読んだ」って聞いて、「あんなエロそうな本を?」と内心驚いたものです。ドキドキしながらページをめくるも、大きな勘違いと気づいてほっとしたやら、ちょっとがっかりやら(?)
青春を懐かしむ年頃になって読み返してみるのも、いいかもしれないですね。久しぶりに私も読み返したくなりました。古本屋めぐってみますかな。

ゆう | URL | 2011-10-08(Sat)11:54 [編集]


村上龍って、「テレビなんかに出てチャラチャラして」のイメージは確かに強いですね。ただ、私は全くテレビを観なかったので(今は観ます)、村上龍に対してそういう嫌悪感はなかったようです。

でも読んだのはかなり昔に、数冊。そして結局「限りなく透明に近いブルー」(著者のデヴュー作・芥川賞受賞)だけが好きでした。気になって調べてみると、「限りなく~」は16歳の時、その後十代の間に「ラッフルズ・ホテル」と「フィジーの恋人」を読んだようです。

「ラッフルズ~」は藤谷美和子主演で映画化(著者本人の監督で)してましたが、ひとことで言って、最悪です。
「フィジーの恋人」はサーカスの小人が倒錯した性の世界に溺れていく話で、こちらの方が読みどころはありますが。好きではなくて。それっきりですね。
(「コインロッカー・ベイビーズ」も読んで、なかなか良い、と思った記憶があるのですが。記録にありません。読んだつもりなだけなのか・・・)

私の中で村上龍は「才能は凄くあるんだけど、何かが惜しい」作家でした。偉そうに「才能の使い方を間違えている」とまで思っていた生意気な自分が今思えば、恥ずかしいです。

何だか、思うところは色々ありますが。ひとくちに言えば、「懐かしい」ですね。村上龍の小説も、それを読んでいた頃の自分も。昔読んだものをふと、読み返してみたくなる、そういう年齢になってきたのかなぁ(笑)

長々とごめんなさい。たいへん楽しませて頂きました。本の感想に絡む静麿さまの日常のひとこまに、和みます。

彩月氷香 | URL | 2011-10-09(Sun)06:59 [編集]


Re: タイトルなし

ゆうさん、こんにちは。

本というものは、本来はひとりで読み、ひとりで思うものなのですが、ときどき、実生活での人間関係に、大なり小なりの影響をおよぼすことがありますね。
私もこの記事の出来事以外にも、いくつか、経験しておりますが、面白いものだと思います。
そうした思い出を味わうための読書、悪くはないですね。

エロそうな本、ですか。
確かに、題名だけをみると・・・わからんでもないです(笑)
まあ、十七歳くらいの男子の行動を動機づけるものなんて、ほとんどエロしかない、というのもウソではない、とはいえるんですが(笑)

コメント、ありがとうございました。

静磨 | URL | 2011-10-09(Sun)19:09 [編集]


Re: タイトルなし

彩月さん、こんにちは。

「才能は凄くあるんだけど、何かが惜しい」とは、確かにそんな気はしますね。
私は本文にも書いたとおり、この本をしか読んではいないのですが、この作品においても、やはりそうだといえそうですね。
あの年頃の少年たちに、世代を超えて共通するものについて、かなりうまく描き出すことに成功しているのに、なんだか大きな活字を使ってみたりだとか、著者の「照れ」があけすけに見えてしまうような表現をしてみたりだとかが、この作品の完成度をひどく下げているように感じました。

私の日常のひとこまは、実際には「和む」なんてものじゃないんですよ。
なんといっても、理系女子と、ど文系男子の共同生活ですから、なんだかおかしなことにもなる、というものです(笑)

コメントありがとうございました。

静磨 | URL | 2011-10-09(Sun)19:28 [編集]


足跡から来ました。

キリスト教の聖書の話ですが、
旧訳聖書の説いている神と、
新訳聖書の説いている神とは
別物なんだそうです。
 
前者が、異教徒を力でさばく怒りの神で、
後者は、人類愛を説く愛の神なんだとか。。
 
旧約聖書の教えって実はユダヤ教だよ
とかってよく聞きます。
 
イエスさんはその教えと違うことを
民衆に説いたから、ああも徹底的に
迫害されたんだとか。
 
新約聖書は面白いですよね。(--*
何か、よく分からない奇跡とかが
起こりまくるところとか。w
 
私もよく調べてました。(-∀-
 
龍さんの本は、本「希望の国のエクソダス」と
本「五分後の世界」をオススメします。(--

白猫絵師 | URL | 2016-04-30(Sat)00:15 [編集]


Re: 白猫絵師 さん

白猫絵師 さん、こんにちは。はじめまして。

旧約聖書と新約聖書、あるいは、ユダヤ教とキリスト教との違いを知ることは、そのまま、なぜ伝統的なユダヤ教の内部から、キリスト教という「新興宗教」が誕生する必要、必然性があったのか、それを知ることだと私は考えております。

ただそれだけに、それは簡単なことではないとも思います。とても面白いことでもありますけれど。

旧約の神が「怒りの神」、新約の神が「愛の神」、というのは、ひとつの側面を表わした比較だとは思います。ただ、あまりに一面的かな、とも思います。たしかにそういう部分はあるし、「人類愛」という性質があればこそ、キリスト教が世界宗教たり得たのだ、という見方には私も賛同します。
しかし、おかしないいかたですが、より人類全体に「公平」なのは旧約の神、だとも考えます。太古の神々に、すなわち昔の人々が畏れた「自然」というものにより近いのは、旧約の神だと思うからです。
この辺りのことも、調べ始めるととても面白いですね。

ご紹介頂いた村上龍の本、最近はなかなか本を読んでいるヒマがなくて、ちっとも読後感想が書けず、読書ブログのはずがなんだかわからないことになっていますが(笑)、読んでみたいなとは思っております。

コメントありがとうございました。またおこしください。

静磨 | URL | 2016-05-01(Sun)13:01 [編集]


実は、私は旧約聖書の方はあまり
詳しく読んでなかったりします。(-ω-;
 
神様が異教徒を滅ぼすことをためらわない
ことに、違和感を感じるというか。。
 
でも、旧約聖書にも大切なことはたくさん
書かれているとも思います。
少し知ったかぶりをしていたかも
知れません。 他人から聞いたことなので。。;
 
宗教って本当に面白いですよね。
直で、その人の信念に関わることなので、
普段は話題に挙げるのもタブー視されてたりとか。。
 
でも、生きてる限り外せないテーマなので、
思考停止しない限り、人は神様や宗教に
ついていろいろ考えるものです。(--
 
宗教間の対立をこれからどうしていけば
いいのか? という課題については
ニールさんの本「明日の啓示」にいろいろ
のってました。
 
時間があれば、、オススメします。(--;
返答ありがとうございます。 ではまた。

白猫絵師 | URL | 2016-05-02(Mon)01:56 [編集]


すみません、訂正です。
本「明日の啓示」→「新しき啓示」でした。
お騒がせしました。(--; では。

白猫絵師 | URL | 2016-05-03(Tue)01:11 [編集]


Re: 白猫絵師 さん

白猫絵師 さん、御丁寧に申し訳ありません。

宗教というものを考えるとき、特に、ふたつかそれ以上の宗教を比較して考えようとするとき、忘れるべきでないのはやはり、いかなる宗教にも、長所も欠点もあるのだ、ということなのでしょう。まして、その歴史的変容の様を研究しようという者は、可能なかぎり中立な立場に、そして「善悪の彼岸」に立つ必要があると思います。

これは、様々なイデオロギーや、他文化の価値観などを考える時も同じことがいえるのでしょうけれども、それはつまり、他者の考えを理解するということは、それほどまでに難しいのだ、ということを意味しているのだということなのでしょう。

いろいろな書籍をご紹介いただき、ありがとうございます。
またのおこしを、お待ちしております。それでは。

静磨 | URL | 2016-05-03(Tue)18:35 [編集]