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『ドリアン・グレイの肖像』

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)
(1962/04)
オスカー ワイルド

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芸術の「善悪の彼岸」性

 この作品は、初めて読んだ。こんなに有名な小説をこれまで読まなかったのは、例によって、私の「英米文学を読まない病」のせいだ。しかし、オスカー・ワイルドのものは、読んだことがある。それも、子どもの頃に、だ。

 『幸福の王子』、『ナイチンゲールとバラ』、『わがままな巨人』。これまたどれも有名な童話だが、今思い出してみると、皆、一筋縄ではいかないような、単に「深み」にとどまらない「ひねり」があるような、そんな童話だった。

 だから、「童話作家」としてのワイルドをしか知らなかった私も、この『ドリアン・グレイ』の作者としてのワイルドに、違和感を覚えることはなかった。

 いうまでもなく、これは「ファウスト伝説」の数あるバリエーションの内のひとつだ。十九世紀末のロンドンの、しかし本当はパリにこそ相応しいというべきであるかもしれない形の、「ファウスト」だ。よって物語はファンタジックであり、オカルトじみており、そういう意味で、私は「童話作家」としてのワイルドの延長線上に、この作品を捉えることができたのだ。

 ただ、私は予備知識はほとんどゼロで読み始めたので、最初のうちは、読んでいて少し腰が落ち着かないような感じもしたことは確かだ。冒頭、著者の芸術論が、唐突に開陳されるところから始まり、何やら箴言だの警句だのが連発されるこの物語を、どっしりと落ち着いて読み進められるひとは稀だともいえそうだが。

 実際、この本は、その箴言だとか警句だとかの宝庫といってよいだろう。そしてそのほとんどは、ヘンリー卿なる人物の台詞のなかにあらわれる。そう、このヘンリー・ウォットン卿という、いわばメフィストーフェレスとしての役割を担う登場人物を、私は、一個の文学的傑作だといいたい。

 物語の筋は単純だ。小説好きのひとならば、最初の数章を読んだだけで、もう結末までわかってしまうだろう。「ファウスト伝説」のひとつの奇抜な解釈、として読めば、まあいろいろと考えさせられる部分もあるのだが、この物語だけをみたならば、あるいは、単純すぎて面白くない、といわれるひともいるかもしれない。しかし、このヘンリー卿なる人物ひとりのためだけにでも、この本を読む価値は充分あるし、よってこの人物ひとりのあるが故に、この物語全体を傑作だと呼ぶこともまた可能だと、そう思うほどに私は、彼のことが気に入ってしまった。

 表題からみると、主人公はドリアン・グレイだ、とすべきなのかもしれない。いや、単に表題に名前があるのみならず、その生涯を書物に埋もれて過ごしたが故にか、単に若く経験不足であるが故にかの違いはあれ、世間知らずで「生を楽しむこと」を知らなかった男が、「まともでない方法」で、二度目の、あるいは永遠の「若さ」という不自然な賜物を得た、という点で、ゲーテの主人公と同じく典型的な「ファウスト」である彼だからだ。しかし彼は、主人公と呼ぶにはあまりもにも空っぽだ。

 19世紀末のあわれなグレートヒェンたる、うら若く可憐な女優シビルに、「プリンス・チャーミング」などと呼ばれるドリアンだが、このあだ名ほど、彼を呼ぶに相応しい呼び名があるだろうか。ヘンリー卿と出会い、その影響力にどっぷりつかるところから、最期の破滅に至るまで、彼には主体性というものがまるでみられない。ただただ運命に翻弄されるだけで、みるべきものといってはその容姿の素晴らしさだけの、空っぽの人間。まさに「プリンス・チャーミング」なのだ。

 勿論そのことは、この物語の欠点ではなく、むしろ物語が成立するための重要な要素だ。ドリアンがもし意志強固な人物だったならば、そもそもヘンリー卿に唆されることも、自身の美貌の永遠を願ったりすることもないだろう。だから、彼は容姿だけの空っぽの人間である必要があった。だとすると、この物語の主人公をヘンリー卿だとみてしまうことも、間違いとはいえないだろう。

 さらにいうならば、私は、もうひとり、画家のバジル・ホールウォードもまた、第二の主人公とみるべきだと感じだ。いや、文学的魅力という点ではヘンリー卿には劣るものの、もしかしたら、バジルのほうが重要な人物なのではないか、という気さえしている。

 ヘンリー卿と、バジル。このふたりの男が、それぞれ、ドリアン・グレイという「芸術作品」を生み出した。一方は、自身の「快楽主義」の理想を体現するかのような、享楽児であるドリアン・グレイを。もう一方は、若く美しい姿を永遠化することに成功した、傑作としての肖像画を。そうした意味では、バジルのみならずヘンリーもまた、芸術家だとみてよいのではないだろうか。

 そして、そのふたつの「作品」としてのドリアンの、本来それぞれ辿るべき運命が入れ代わってしまったこと、つまり永遠化されたはずの「肖像画」のほうが醜く老いていき、享楽児のほうが若さも美しさも保ち続ける、ということが、悲劇を生んでいく。

 ただ、ヘンリー卿は自分の「作品」について、それほど関心がないようだ。勿論興味は抱き続ける。しかしドリアンの美貌がどうあろうと、またその道義心がどうあろうと、彼にとっては元来どうでもよいことなのだ。このシニカルな警句家にとっては、自分のことも含めて、「身につまされること」などこの世にはひとつもないのだから。

 しかしバジルは違った。この悲劇は、ドリアンにとってよりも、むしろバジルにとって、より悲劇的だった、といえないだろうか。画家である彼は、ドリアンという完璧な美を、画布に永遠にとどめることに成功した。だから本来ならば、当然モデルであるドリアンに訪れるはずだった変化も、悲しむべきことではあったとしても、その肖像画の存在故に耐えられるものであったはずだった。

 だが、彼の見出した最高の「美」は、全て失われてしまった。実際のドリアンは、外見こそは若々しい美しさを保ってはいるものの、その内面が、背徳的な堕落に染まってしまったことを、芸術家としてのバジルの眼が見逃すはずはなかった。そしてさらに、バジルの最高傑作として永遠にあり続けるはずだった肖像画までもが、無惨に変貌してしまったのだ。

 この堪え難い損失のために、バジルは、殺されずとも自ずと死んでしまったのではないか、とさえ私には思われる。そしてここに、彼の芸術家としての限界を見出すということ、それもまた可能ではあるだろう。

 即ち、この物語の序文として掲げられた、作者ワイルドの、極めて「現代的」な芸術観。そこに語られる、

 「芸術家たるものは道徳的な共感をしない」

 「善も悪も芸術家にとっては芸術の道具にすぎぬ」


 という言葉。この領域に至ることができなかったバジルの、前時代的な芸術家としての限界、という意味でだ。

 だが、この「バジル的」なものが、ワイルド自身の内にもまたあったのでは、とまでいってしまったら、いいすぎだろうか。美というもが、「善悪の彼岸」にあるのだとしても、それは「悪しきものの美しさ」を肯定するものであるばかりではなく、「善きものの美しさ」を否定するものでもない、ということもまた確かだろう。そしてその「善きものの美しさ」は、ワイルドが芸術家であるからこそ、無視できないものであったはずだ。

 イメージとしては、ヘンリー卿こそが、唯美主義者オスカー・ワイルドの分身であるかのように思えるし、それはそれで間違いではないだろうけれど、バジルもまた、作者の分身であったのではないだろうか。つまりこのふたりを併せ持つのがワイルドという作家なのであり、だからこそ、この物語の救いのない悲劇性は生まれたのであり、そしてまただからこそ、私はヘンリー卿ばかりでなくバジルをも重要視したいと感じたのだ。

 だとしたならばさらに、こういう見方も可能ではないだろうか。ワイルドはヘンリー卿のようにありたく思い、自身の理想像としてヘンリー卿を描き、また、自身の内なるバジルをも意識していたが故に、作中のバジルを、ああも徹底的に「消滅」させたのではないか、と。まあ、ここまでくると、さすがに私の想像が行き過ぎつつあるかもしれないが。

 ともあれ、私としては久々に面白い小説を読んだなあ、と、満足して本を閉じることができた。ハイネの『ファウスト博士』をつい最近に読み、ファウスト伝説についてもちょっとあれこれ考えてみたすぐ後だったし、読むタイミングもよかったといえるかも知れない。

 ところで、この作品全体を見渡しても勿論のことだが、特に、第十一章において、テオフィール・ゴーチエの名前や、「美のまぎれもない現代性」などという言葉をみるに及んでは、オスカー・ワイルドの芸術観に、ボードレールが深く影響を及ぼしていることは明らかだろう。そして私としては、またしてもボードレールか、という感じをうけた。

 このブログで、私はちょくちょくボードレールの名前を出しているが、それは、近代文学のみならず、現代文学においてもなお、最も重要視すべき作家は依然としてボードレールだと思っているからだ。そして今回、また彼の影響に出会った。そろそろ、このブログでも、『悪の華』の詩人を取りあげたいと思っている。思ってはいるけれど、重要視しているだけに、なかなか、ムズカシイです。まあ、ぼちぼち、がんばってみます。

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