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『ファウスト博士』

ドイツの文学〈第2巻〉ハイネ (1966年)ドイツの文学〈第2巻〉ハイネ (1966年)
(1966)
不明

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ハイネという詩人

 これはゲーテでも、トーマス・マンでもない、ハイネが書いた「ファウスト」だ。もう十五年以上も前に小さな古本屋でみつけてまとめて買ってきた、三修社の『ドイツの文学』という全集のなかのハイネの巻に、このタイトルがあったことを知ったのは、つい最近のことだ。つまり、私の「積ん読」本の山のなかに埋もれていた一冊、ということだ。

 私は、ハイネが好きだ。初めて彼の作品に触れたのはごく若いころだったし(たしか、新潮文庫の『ハイネ詩集』だった、と思う)、『歌の本』にはお気に入りの詩が幾つもあるし、『流刑の神々』には、特にヨーロッパの宗教観についての私の視野を、大きく広げてもらった。しかし、私にとってこの詩人は、いまだに、なんだかとらえどころのない、どう評価すべきかイマイチよくわからない、そんな詩人であり続けている。

 文学史的にいうならば、ドイツロマン主義を代表する詩人、ということにでもなるのだろうけれど、なんだかノヴァーリスなどとくらべると現実主義的で皮肉屋だし、かといってもっと写実的なシュティフターあたりと同じ括弧でくくるのもやはりシックリこないし、まあ、それがハイネの独自性だといってしまうとそれまでなのだが、だからといってその「独自性」がどこにあるのか、それもまたはっきりわからない、と、こんな感じだ。

 今回読んだ『ファウスト博士』、これもまた、なかなか面白かった。バレー台本ということで、文学的な装飾のあまりない、ほとんどあらすじのような作品なのだが、それが逆に想像力をかき立ててくれるようで、ゲーテの『ファウスト』のような壮大さはないとしても、これもまたひとつのファウスト物語として、楽しむことは充分できる。

 しかしまたしても、これでハイネを「判断」することはできなかった。なるほど、ハイネにはこんな面もあるのか、とは思ったけれど。もう、あきらめて作品そのもの「だけ」を楽しむことにしてしまおう。大体それが、文学作品と向き合うための、本来の姿勢、とういうものだ、とひらきなおって。

 (そういえば、松岡正剛氏も、その『千夜千冊』のなかで、「ハイネは謎だ」みたいなことをいっていた。氏の謂うところの理知的な「謎」よりも、私の「わからない」は感覚的なものといえそうだが、文学史的な流れの中におさまりきらないような、ハイネの才能の「突発性」を捉えきれずにいる、という点では、もしかしたら氏と私とには共通する部分があるのかもしれない。)

 この作品において、まず注目すべきは、というか嫌でも注目させられるのだが、やはり悪魔の名前が「メフィストーフェレス」ではなく、「メフィストーフェラ」、すなわち女であることだろう。

 物語冒頭、ファウストが「悪魔呼び」のまじないをすると、まず現れたのは「赤い炎に包まれた虎」だった。ファウストがそれを追い返すと、次に現れるのは「巨大な蛇」だった。しかしファウストはそれにむかい、「地獄の精霊がもっと危険な形をとって現れることができない」のを嘲る。すると大蛇は退散し、次に現れたのが、「女の悪魔」メフィストーフェラだった。

 虎よりも大蛇よりも「危険な形」を、「女」とするあたりは、いかにもハイネ、というべきだろう。そういえば、手塚治虫の『ファウスト』のメフィストが、やはり「雌フィスト」という女だった。あるいはこのハイネの『ファウスト』からヒントを得たのか、などとも考えたが、まあそれは推測にすぎない。とにかく、このメフィストーフェラの存在が、このハイネの『ファウスト博士』の独自性を生んでいる大きな要因であることは間違いないだろう。

 最終的には「永遠にして女性的」なものによって、高みへと引き上げられ、救済されるゲーテの『ファウスト』と違い、最初の契約通りに地獄へと引き摺りこまれてしまうハイネの『ファウスト博士』では、やはり悪魔は「女」でしかありえなかった、といったところか。

 こうしたいいかたには女性の方々は立腹されるかもしれないが、やはりハイネのみならず、大概の男にとっての「女性的魔性」というものは、説得も強制もできない、「ダメなものはダメ」で押し切られてしまうような、そんなどうにもならない、否応のない恐ろしいものなのであり、この「メフィストーフェラ」は、「女性性」のそうした面の象徴であると、私には思われた。

 そして、この「どうにもならない」という徒労感、とでもいったものが、物語の全体を基調として貫いている。ファウストは、メフィストーフェラの導きのもと、みっつの恋をする。まずはヨーロッパ的な、すなわち「ロマン的」な「ワルプルギスの夜」において、魔女である公妃との恋を演じる。初めはその恋に夢中になるファウストだったが、やがてその「ゴシック風な乱雑」に嫌気がさし、「ギリシア風な調和」、そしてその象徴であるヘレナに憧れ、ヨーロッパを後にする。

 舞台はエーゲ海の島へ。そこに展開されるのは、真にギリシア的というべき「彫塑的な浄福」。ファウストはそこでついに、恋と美と悦楽の象徴ともいうべき女性たるヘレナと出会い、古典的な響宴を堪能する。しかしコウモリに乗ってあらわれた、嫉妬にかられた公妃の闖入をきっかけに、すべては崩壊する。

 メフィストーフェラが杖を振るうと、神殿は廃墟と化し、ヘレナもまた、骸骨のようなミイラとなる。あるいはこれは、古典的調和というものは結局、懐古的な幻想にすぎないのだと、ゲーテの古典主義を揶揄しているのかもしれない。何にせよ、自らの理想の顕現ともいうべき幸福を失ったファウストは、公妃の胸に剣をつきとおすと、また黒馬にまたがり、メフィストーフェラとともに島を後にする。

 そして第五幕。「純粋なすなおさ、しとやかさ、美しさに魅せられて」、市長の娘に結婚を申し込み、受け入れられたファウストは、

 静物的生活のうちに、魂を満足させる家庭の幸福というやつを見いだした。

 この皮肉たっぷりの言葉とともに、ファウストは、ハイネが生きた時代の主人公たる「市民階級」というものと、和解し、道徳的平和のなかに憩う路を選ぶ。

 高慢な精神ゆえの疑惑や熱狂的な苦痛の享楽は忘れさられ、こうして内面の浄福感に輝くかれは、教会の塔のうえに立つ風見の金鶏そっくりである。

 一市民として生きることこそ真の幸福とばかりに、ファウストが教会に向けて婚礼の行列をはじめたそのとき、メフィストーフェラはあらわれ、胸元から「契約書」を取り出す。ファウストのいかなる抗議も、またいかなる嘆願も、彼女は聞き入れようとはしない。やがて地面がひらき、身の毛もよだつ地獄の怪物たちの登場とともに、蛇に化身したメフィストーフェラは、最初の契約通り、ファウストを絞め殺し、その命を奪う。

 こうして何もかもは徒労に終わる。ファウストは何一つ得ることなく、女悪魔はきっちりと求めたものを得る。恋においてもまたこの通りだと、恋愛詩人たるハイネがそういって肩をすくめているように思えるのは、私だけだろうか。

 あるいは当時の時代精神ともいうべきロマン主義にも、絶対権威ともいうべきゲーテ的な古典主義にも、そして勿論小市民的なけちくさい価値観にも組せず、斜にかまえて皮肉に笑う姿こそ、なんだかハイネという詩人の本当の姿であるようにも、私にはみえた。

 そして私にとってのハイネという詩人は、なんだかさらに、とらえどころがない相手になってしまったような気がする。書かれてあることはきっぱりとしていてわかりやすいのに、どうしてこう判断しづらいのだろうか。

 この『ファウスト博士』という作品、私がざっと調べた範囲では、この『ドイツの文学』第二巻に収録されているもの以外に、邦訳されているものはみつけられなかった。巻末に「昭和41年9月1日 第一版印刷」とあるから、もうきっちり45年も前の本だ(ちなみに定価は520円!)。発行部数がどのくらいあるのかはわからないが、本屋にいってすぐに手に入る、ということはまずないだろう(アマゾンでは、手に入りそうですが)。しかし読んでみたならばとても面白い「ファウスト」なので、岩波文庫か、ちくま文庫あたりでぜひ、新訳でもいいから出版して頂きたいものだ。

 そしてその巻末には、さっぱりとまとめられた「ハイネ評」みたいなものを付録していただくと、私的にはとてもありがたいのですが、それはムシがよすぎるというものでしょうか。

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コメント


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詩人

静磨さん、はじめまして。

ハイネは詩集しか読んだことがなく、ファウスト博士は
知りませんでした。

読み終えて思ったのは、ハイネの女性観はキリスト教を
布教するために、火や蛇や女や森の象徴でもあるメドゥーサ
を封じ込めたヨーロッパの通念に重なるものだと感じられ
ました。かなり平凡な感覚なのでは?

それにしましても、文学を真摯に語るブログに出会わない
ので、いつも興味深く拝読しています^^

はなさかすーさん | URL | 2011-09-04(Sun)20:03 [編集]


Re: 詩人

はなさかすーさん、コメントありがとうございます。
そして、いつもご訪問くださり、ありがとうございます。

ハイネの女性観、ですが、私としてはむしろ、そうした太古的な「女」というものを、ハイネは、悪魔という形で「肯定」しているのだと観ております。
この点に関しましては、ハイネの『流刑の神々』、そして『精霊物語』を読んで頂けると、あるいはご理解頂けるのではないか、と思われます。(ふたつまとめて、岩波文庫からでております。おすすめです。)
キリスト教伝来以前のヨーロッパの、妖しくも魅惑的な妖精たちを、キリスト教が「悪魔」として排斥したということの罪を、ハイネは、我々に告発する立場にあったひとなのです。

ただ、ハイネの宗教観というもの、これもまた、一筋縄ではいかないものがあり、私の「ハイネ観」を揺るがす大きな要因のひとつではあるのですが(笑)。

静磨 | URL | 2011-09-05(Mon)11:25 [編集]