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『津軽』 太宰治の魅力

津軽 (新潮文庫)津軽 (新潮文庫)
(2004/06)
太宰 治

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津軽半島へは、二度、行ったことがある。一度目は1993年の夏、青森港発の函館行きカーフェリーの出港までの待ち時間に、オートバイで。二度目は、2005年、車(マーチ)で東北を一週間ほど旅行したその途中に。

 一度目は、時間つぶしのついでに、という感じで、ただ青森港から竜飛岬を往復したきりだったが、二度目は、いろいろと観てまわった。太宰治の生家である斜陽館にも行ったし、義経寺に寄ったりなどもした。あの東北旅行は、これという目的もなくあっちこっち東北全体をまわろうという企図だったのだけれど、唯一の目的らしきものとして、この津軽観光があったのだ。

 1993年のツーリングは、目的地は北海道だった。その北海道ツーリングから戻り、ふと竜飛岬のことを思い出して読んだのが、この『津軽』だった。それまでは読んだことがなかった、この太宰にしては珍しい長編の紀行文に接し、私は、もっと津軽地方をしっかりみてこなかったことを後悔した。それ以来、私はもう一度津軽に行きたいと思い続け、2005年になってやっと、その願望をはたしたと、そういう訳だった。要するに、私にとっては太宰の『津軽』には、それだけの魅力があった、ということだ。

 そう、私は太宰治が好きだ。なんだか太宰を好きだというと、往々にしてミーハーというか、ニワカというか、「ああ、太宰ね」というか、中二病というか、スイーツというか、まあそんな、少し馬鹿にされたような扱いを受けやすく、太宰なんて、と鼻で笑ってやるほうが、文学の玄人みたいに思われていいのだけれど、実際好きなのだから、嘘をついてもしょうがない。

 確かに彼の思想、考え方、価値観には、独創的なところも、先進的なところもない。だが彼は哲学者でも思想家でもない。ならばその物語はどうか。面白い話はある。しかし、その物語の展開の意外性や面白さによって、読者を釘付けにするような、そんなタイプのストーリーテラーでは彼は決してない。では小説家としての太宰は、実は並の小説家でしかないのか。

 それは、然り、ともいえるし、否だともいえる、と思う。いわゆる小説家としては、もしかしたら彼はそれほどの人物ではないのかもしれない。森鴎外や川端康成などを、文豪、と呼ぶ人は多くあっても、彼をそう呼ぶ人はあまりいないだろう。どうも、大小説家、というイメージは、彼には合わない。だがそれでもやはり彼には魅力があるのだ。それはなにか。

 それは、彼の文体、これに尽きる。その表現方法といい、リズムといい、もう読み出したら止まらない魅力が彼の文章にはある。この一点において、太宰は天才だと私は思っている。太宰は散文家だ。しかし彼の書くものはほとんど詩なのだ。並の小説家か、と問われて、然りとも否ともいえる、とはこういうことなのだ。

 勿論太宰が残した作品の多くは散文小説だ。詩らしい詩など、ほとんどないといってしまって大過なかろうとは私も思う。だがそれでも敢えて彼を詩人と私は呼びたい。

 散文詩、などという言葉がある。これは西洋から輸入された、比較的新しい文学形式だけれども、顧みて日本の古典、『平家物語』だの『枕草子』だのを繙くとき、古来の日本の散文とは、即ち西洋的にいうならば散文詩ではないだろうか、と思わされる。脚韻だとか律韻だとかをもたず、それでもなお音楽的であることを失わず、抒情的に連なる、それが日本の古典文学の本来的な姿であり、そして日本文学独自の魅力なのではないだろうか。

 そしてそれはまさに、太宰の散文に私が感じる魅力と同質なのであり、だからこそ彼を、私は詩人と、換言するなら「散文詩人」と呼びたい。そしてこの観点からこそ、太宰は天才だと、私は呼びたいのだ。彼の書く文章には独自の文体がある。そしてそれは、散文であることをこえて詩の領域に達するような、それほどの力をもつ、ということなのだ。

 で、『津軽』だ。これにもやはり、ふんだんにその「散文詩的魅力」は感じられる。また古典との比較になるが、日本文学は短編にその神髄がある。それがまた「散文詩的」になる要因でもあるのだけれど、一見長編の形をとるもの、例えば『源氏物語』だとか『義経記』だとかも、実は短いエピソードのつらなりであり、基本形は短編にある。

 太宰の真骨頂も短編にある、と私は思っている。だから、太宰お得意の「女性の一人称独白体」の作品でくらべてみても、『斜陽』よりは『ヴィヨンの妻』のほうがずっと魅力的だ。そうした観点からは、この『津軽』は太宰にしては長過ぎる、といえる。

 同じ紀行文でくらべるならば、『佐渡』ぐらいの長さが本来の彼の守備範囲であるはずなのだが、それでも『津軽』が、太宰らしさを失っていないのは、古典的長編と同じく、短いエピソードの連続として、全体を組み上げているからだ。

 全体としてのまとまりは、全くないという訳ではないけれど、それほど強く意識して書かれた感は受けない。しかし、その部分を形作る短いエピソードが、全編を一気に読み通させる原動力になっている。

 そのいちいちを挙げていけばきりがなくなるが、たとえば「卵味噌」のくだりなど。太宰は会話文が得意であり、特に、ひとりの人物が一気にまくしたてるときに実に面白いものを書くのだが、これなどはその好例といえる。この文庫本で約1ページにもわたる「Sさん」のひとり相撲の右往左往を、初めて読んだとき、私は、漫画でも読んだときのように笑い転げたことを憶えている。

 あるいは、徒歩で竜飛の集落に近づくあたりの描写などはどうか。碑文にもなっている「ここは本州の袋小路云々」もさることながら、「もはや、風景ではなかった」という表現。観光地として人の眼にさらされていない、最果ての地の物凄さを、これほど見事に、しかも弱々しいセンチメントに陥ることなく表現してみせるあたり、詩人太宰の面目躍如といったところか。

 そして、最後の「たけ」とのエピソード。最果ての地にようやく訪れた春のある日の、運動会という「非日常」の雰囲気のなかで、太宰は、自分の過去と出会う。常に自身の存在に疑問を抱き、その頼りなさに絶望し続けてきた太宰が、自分の幼い頃を知り、愛してくれた者と再会し、そしてその側に幼子のように憩う。自分を否み続ける男が、そこでは他愛なく他者の「然り」に身をまかせるのだ。その様子に読者は救われる。他にいいようもない、ただ救われる心地がするのだ。

 太宰を、『人間失格』あたりを飛ばし読みして、ただ暗くメランコリックな、自分を悲劇の主人公にみたてて酔っているばかりの作家だと思っている方々は、ぜひ、そうした先入観を捨てて、この『津軽』を読んでみていただきたい。きっと、彼のもつ別の側面がみえてくるはずだから。


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コメント


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私も太宰治の作品が好きです。
三島由紀夫と太宰を比べる話も、
とても興味深く読ませていただきました。
たくさんの作品を読んだわけではありませんが、
彼の人間がどこそこに感じられ、
いつしか作者と対話しているような感覚に陥るような気がします。

いつかMIXIで太宰のコミュニティを覗いたときに、
彼の悪口が書かれていたのに、
たくさんの人が目を逆立てて反撃をするのがとても面白く、そこで作家としての彼の人気の凄さが改めて分かったような気がしました。他にこれだけ熱狂的なファンをもつ日本人作家はいないのではと思いました。

谷崎 聖子 | URL | 2011-11-17(Thu)05:59 [編集]


Re: 谷崎聖子さん

谷崎聖子さん、こんにちは。
こんなに古い記事を読んで頂いて、本当にありがとうございます。

確かに、太宰の文章には「肌で感じる」ものがありますね。
彼の天才は、凡人には手の届かないような「何ものか」ではなく、誰もが心にもっているような人間的なもの(特にその弱さ)を、あらわしてみせることの巧みさにあるような気がします。
だからこそ、彼はある人びとには熱烈に愛されるのでしょうし、またある人びとには、どこか「しろうと臭い」作家だと思われるのではないでしょうか。

コメントありがとうございました。
谷崎さんのブログの写真、いつも楽しませて頂いております。
それでは。

静磨 | URL | 2011-11-17(Thu)22:10 [編集]