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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『人は成熟するにつれて若くなる』

人は成熟するにつれて若くなる人は成熟するにつれて若くなる
(1995/04)
ヘルマン ヘッセ

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現在、ハーフタイム

 私は1971年生まれなので、今年の末にはいよいよ四十歳になる。よんじゅっさい。生まれてから40年。何だか嘘みたいな数字だ。

 日本人男性の平均寿命は、大体八十歳位らしい。だとすると、私に幸運にも平均的寿命が天より与えられているのだとしても、もう人生の半分は生きてしまったことになる。まあ、自分ではどうもそんなに長生きはできるとは思えないので、私の「これから」は、ほぼ確実に「これまで」より短いだろう、とは思っている。

 思い出せば二十歳の頃、私は、四十歳まで生きて、そこで自殺してしまう、という人生を考えていた。

 「七十、八十まで生きようと思うから、人生がややこしく、生きにくくなるのだ。四十年も生きれば充分だ。四十年かけても何もできないような人間は、その後何年生きても何もできないだろう。四十歳までに何かができるような人間ならば、それ以上無駄に生きながらえるよりも、すっぱり死んでしまったほうが、人生を善きものと観じながら満足して死んでいけるだろう。」

 というのが、当時の私の考え方だったのだが、ああ、こんなことを周囲の人たちに向けて大々的に公言しなくて本当によかったと、今では心底思っている。何とばかばかしい、というよりも痛々しい、浅はかで、思い上がった、ノーテンキな考え方だろうかと、我がことながら恥ずかしくなる。

 要するに、当時の二十歳の私には、四十年を生きる、ということが、まだ何もわかっていなかったのだろう。四十年という年月が、何だかとてつもなく長い、現実味のない時間のように感じられていたのだ。だが、二十年前の私に、今の私からいえることは、「お前、二十歳から四十歳までなんてあっという間だし、人間、そんな短い間には、それほど成長も達観もできないぞ」、ということぐらいだ。なにせ、才能に恵まれたひとならばともかく、凡人であることにさえ一苦労の私なのだから。

 そして今、実際に四十年を生きてみた上で、さあ人生ももうあと半分だぞ、と考えてみると、「これから」を果てしのない時間のように感じていた二十歳の私とは対象的に、今度は、その「短さ」におののく自分がいる。ええっ、もう半分か、といったところだ。

 何だか、焦りすら感じることがある。人生においては、時間の流れ方というものは一定ではない。時間はどんどん加速する。十代を生きた十年間は、三十代の十年よりもはるかに長かった。ならば「これから」の四十年は、「これまで」の四十年よりもずっと短い、と考えるべきだろう。しかも、その四十年とは、保証された四十年ではなく、もしかしたら三十年、あるいは五年かもしれないのだ。自殺? 馬鹿な。自分で死ぬ覚悟を決める前に、向こうからお迎えが来てしまうのではないか? 自殺なんかゼイタクだ。

 そして手に取ったのが、このヘッセの詩文集だ。どういうつもりか二十代前半の頃に買った本なのだが、例によって「積ん読」の山に埋まっていたのを、今回、引っ張り出してきた。テーマは「老い」。ヘッセの執筆活動の後半に書かれた、小品や詩を集めたものだ。私には早すぎるか、とも思ったが、読んでみると、決して早すぎることなどはなく、もっとも良いときに読んだのだ、とさえいえるかもしれない。

 この本の最初のふたつのエッセイ、すなわち『春の散歩』と『夏の終わり』は、それぞれヘッセが四十二歳と四十九歳のときに書かれたものだ。さらに、それに続く『湯治客』は四十七歳、『ニーナとの再会』は五十歳だ。そのどれもが、「老成」した作家が書いたものだとしか思えないような、そんな落ち着き、静かな諦観に満ちている。人間が四十年を、そして五十年を生きるということとは、これほどまでに「偉大なこと」であり得るのかと、凡人である私はそう思わずにはいられなかった。

 そして、さらにヘッセは老いていく。その筆に成るものは、さらに深みを増していく。そこには、ある生きかたが、つまり人生の後半期に相応しい生きかたが、確かにあるのだと感じられた。まだ前半期をしか生きていない我々には思いもよらないような、何かがあるのだ。

 それを、「これから」の私は学ばなくてはならないのだろう。だから、この本を読むには最も良いときに、私は読んだのだと思ったのだ。私は人生における「次の段階」に進むために、これから多くを学ばなければならず、そしてそのためには、若い頃とはまた違った本、たとえばこの本のようなものを読む必要があるのかもしれない。

 あるいは、ことさらに「老人向け」の本を、というよりは、これまでに読んだことのある本であったとしても、年齢に相応しい読み方、というものを学ぶべきなのだろうか。「老人向け」な本、などというものが、そうそうたくさんあるとも思えないからだ。

 以前、有島武郎の『小さき者へ』の記事で、私はこの本を息子としてと、父親としてと、ふたつの立場から読んで、全く違う感想を抱いた、というような記事を書かせていただいたことがあったが、つまりは、そういうことなのではないだろうか。例えば、『荒野のおおかみ』は、ヘッセが五十歳のときの作品だ。これを二十歳そこそこで読むことと、執筆当時のヘッセ、あるいは主人公のハリー・ハラーと同年代に至ってから読むこととでは、読み手にとってはまるで違った意味が生まれるのかもしれない、ということだ。

 あるいは逆に、同じくヘッセの『車輪の下』だとか、『クヌルプ』だとかいった、所謂青春文学と典型的に呼ばれ得るような作品に、かつてのように若者の立場に主体性をおくのではなく、年配者であり大人であり親としての、つまりは「常識をわきまえた市民」としての立場から、接するのだとしたら、やはり全く違う印象を抱く、ということは充分あり得るのではないだろうか。

 つまりそれは、同じものを違う視点から、違う立場で観る、ということだ。これは読書に限ったことではなく、当然、日常生活においても同じことがいえるだろう。そう、人生の後半期には、後半期に相応しい観点、というものがあり、それを、この『人は成熟するに・・・』という本は、我々に教えてくれているのだと私は思う。

 「生きる技術のかわりに、別の技術に私たちは関心をもちはじめる。人格を形成し洗練するかわりに、それを解体し分解することにかかわりあいはじめる。」(『夏の終わり』)

 すでに四十九歳にして、ヘッセはこんなことをいう。それはなるほど何かを喪失することであるのかもしれない。老いる、ということには、多くを失うこと、という側面があることは確かだろう。しかしそれは、あくまでもある偏った観点、具体的には人生の前半を生きる若者の観点からみた場合であるにすぎない。

 この本のなかで、私が最も感銘を受けたのは、『運動と休止の調和』と題された小品だ。このヘッセが七十五歳のときに書かれた、美しく、いいようのないほどの深みをたたえた短文のなかで、彼は、

 「自然のひとつのささやかな啓示の中に、神を、精霊を、秘密を、対立するものの一致を、偉大な全一なるものを感じるためには、生の衝動のある種の希薄化、一種の衰弱と死への接近が必要なのである。」

 という。この意味深い言葉の、ひとつの例として、一本のちいさなブナの木の、季節の移り変わりのなかでの変容について、詩人らしい印象的な描写を展開する。長らく寒さや風雨に耐えていたブナが、ある日、時が至り、あるかなきかのそよ風に、音もなく全ての葉を枝から散らせるその様に、老いたるヘッセはなにを観たのだろうか。

 「それは何ものも意味しなかった。何に対する警告でもなかった。むしろそれは一切を意味した。それは存在の秘密を意味した。そして美しかった。・・・」

 生まれ、成長し、老いて、死ぬ。人生は様々な様相を、そのときに応じてみせはするけれど、その全ては、結局、ひとつの「生」のもとに包括されるのだということ。生と死、というものですら、それは対立するものではなく、同じものの、別の観点からのふたつの「呼び名」に過ぎないのだということ。ヘッセが観たものとは、そういうことだと私は思ったのだが、どうだろうか。

 人生の前半期に、生きる、ということを底の底まで悩み抜いた、そんなヘッセだからこそ、後半期に、老いる、ということについても深く考え抜くことができ、そしてさらに、死というものの認識についてもまた、こうした「達観」にまで至ることができたのだろう。

 人間、漫然と生きていても、やがては老い、死ぬものではあろうけれど、しかし、「良い老いかた」、「良い死にかた」というものはあるものだと、この本に載せられた、老年期のヘッセの表情をみると、痛感させられる。その癒し難い苦悩が無数のしわとなって刻まれた面貌と、深い思慮に満ちた曇りのない眼、しかし全体としてこのうえないおだやかさに満たされた、晩年の彼の表情が、結局は全てを語っているのだろう。

 今回は、なんだか「年寄り臭い」記事になってしまったが、しかし、私にはまだ幼い子供が二人もいるし、老後の備えなどなにひとつない訳で、実生活においては、まだまだ老け込むことは許されない立場にある。また、自分でもまだ、老人になる気は毛頭ない。だいたい、私はまだあと数ヶ月は三十九歳なのだ。もうちょっと、「若者」の仲間でいさせてください。

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コメント


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はじめまして

はじめまして。

たびたび貴ブログを訪問させていただき、いつも感銘を受けています。

一度コメントを残したいといつも思っていながら、記事の持つ荘厳な文章の前に、自分の筆力で何を書けばいいのだと、ついひるんでしまい、コメントできずにいました。

すべてではありませんが過去の記事も拝読させていただき、とくに「ノルウェイの森」と「がむしゃら1500キロ」は、胸を打たれました。とくに「がむしゃら~」は、心が震えるくらいの共感をおぼえました。

いや、その二つの記事だけでなく、どれも「本物」だと思いました。

ぼくもブログをやっていて、はじめた当初は一つひとつの記事に魂をこめていたのですが、日々の忙しさを理由に、最近は手を抜いてばかりです。

あなたのブログと出逢い、これではいけないと、頬をぶん殴られたような思いです。

実力という壁がある以上、貴ブログのような磨き上げられた記事は書けませんが、初心に帰り、魂だけはこめて書こうと思います。

貴ブログをぜひリンクに加えさせてください。

では。また訪問いたします。

道下 森 | URL | 2011-08-20(Sat)16:27 [編集]


Re: はじめまして

道下森さん、コメントありがとうございます。

身に余るお言葉、ありがとうございます。
本当に、私のブログが、わずかでも道下さんのお役に立てたのならば、こんなに嬉しいことはありません。
自分が書いたものを、読んでいただけるということ、これだけでも私にはとても幸せなことなのですから。

しかし、道下さんのブログもまた、私や、きっと他の読者の方々にとっても、形はどうあれ「力」となっていること、これは、忘れないで頂きたいです。
いや、どうも道下さんが、ブログや、小説を書く、ということに悩んでいらっしゃるようなので、あえてこのようなおせっかいじみたことを書かせて頂いているのですが、例えば、『北海道カヌーの旅』の記事だけでも、かつては北海道を旅したことのある私、しかし今は生活のために、どうあがいてもあんな旅をすることが出来ない私にとって、どれほどの慰めになっているか、どうお伝えすればよいのかわからないくらいなのです。

長々すみません。
リンクの件、ありがとうございます。
こちらからも、リンクさせていただきます。
よろしくお願いいたします。

静磨 | URL | 2011-08-21(Sun)13:10 [編集]


いいお話ですねぇ・・・(しみじみ)

まるで、短編小説のような・・・。

(あ、すみません、前記事にコメントが出来ないのでこちらに・・・。なぜか、また不正投稿としてハネられてしまいます。内容がズレてますがごめんなさい)

ツルゲーネフは、「父と子」は読みましたが、「初恋」は読んでいません。
サン=テグジュベリは好きで、どちらも読みました。
で、「若きウェルテルの悩み」・・・読んだような、読んでないような(汗)
どちらにせよ、遠い昔のことですねぇ・・・

秋からの個人的な「哲学と文学の夕べ」リストに追加します。

ところで静麿さま、私と同年代ですね・・・近いですよ(笑)
私は、昔。本気で30歳までに死のうと思っていました。
別に自殺しなくても、体弱いし、無茶して生きてたら死ねる気がしてました。

若さって傲慢なもので、30歳以降なんて「余生」だと思ってたんですね・・・。
現実は、まだ人生が始まってもいないような体たらくなのに。
ほんと、誰にも打ち明けなくてよかったです。

そうそうウェルテル、映画化しましたね。確か10月公開のはず。
出来はどうなんでしょうね?観るか観ないか悩んでます。

彩月氷香 | URL | 2011-08-27(Sat)19:49 [編集]


こんばんは

何度か、コメントさせて頂いてますが、ハネられております。
私が思うに、ある言葉がNGワードなんじゃないかな・・・と。
しかし、それを外すと、文章が通じなくなり・・・。
別に、普通に使う言葉だと思うのですが・・・。
ここに書きたくても、たぶんハネられるので説明できません。
(ヒント 「生きる」の反対語)
おそらく、迷惑コメントのところに入っていると思うので、
確認して頂けますでしょうか?
ダブってる可能性が大なので、お手数ですが消去して下さいませ。

彩月氷香 | URL | 2011-08-27(Sat)20:00 [編集]


ヘッセファン

こんにちは(^^

一番好きな作家はヘッセなので
とても嬉しく拝読しました!

ヘッセが好きi-80・・とか、
なんかメルヘンおばさんみたいで
言いにくい感じですけれどねi-229
シュタイナーが好き・・よりは、いいかしら

ご紹介くださった本のシリーズは
題がちょっと、恥ずかしいですが
読んだことのなかったヘッセのエッセイが
いっぱい読めるのでいいですよね!

この本の中の、「ニーナとの再会」が
私は大好きで、ニーナばあさんみたいになりたい
そしてヘッセみたいな人に訪問されたい・・
などと夢見つつ、コーヒーをどろどろに入れてみたりします

埃かぶった本を、本棚から引っ張り出してめくってみると
すぐに素敵な言葉にぶつかりました
p99の最後、
死が、「新しい空間への転進へ、覚醒へ、新たな開始へとつながって行く、そういう段階と期間が存在することに気がついた」
これは「目覚めの体験との関連で」気がついたとされていますけれど、ここに、自称神秘学徒i-179としても興味がわいてきます

私はヘッセはけっこうわがままな人だったのではないかと思っていて、少年のようなところが最後まであった人だと感じます 老人でありながら無邪気な子供でもある、人生の両端がつながる事で、またらせんのように続いていく魂の旅を予感させてくれる・・とても大事にしたい一冊です!



hasutama | URL | 2011-08-28(Sun)13:53 [編集]


Re: いいお話ですねぇ・・・(しみじみ)

彩月氷香様。
せっかくコメントくださったのに、何だかいろいろすみません。

若い頃、というのは、きっと、生命力にあふれているからこそ、その生命力を軽視してしまうのではないでしょうか。
我々はどうしても、たくさんあるもの、については、その価値を見損なう傾向にある気がします。
まるで希少価値、というものだけが、あらゆるものの価値基準であるかのようにです。
そして、それらのものを乱費し、浪費し、失ってみて初めて、その価値に気付くという、そんな過ちを、こりもせず何度も何度も繰り返しているという訳です。

『初恋』は、その題名からは、何となく甘い恋物語のように感じられるかもしれませんが、そんなつもりで読み始めると、チクリとやられてしまう、そんな作品で、私はとても気に入っています。
ツルゲーネフは、私の好きな作家のひとりであり、『猟人日記』あたりを、近々読みかえそうか、などと思っていたりします。

『ウェルテル』の映画化、は知りませんでした。
私にとっては、文学の巨大迷路の入り口で出会った、思い出深く、親しみ深い作品であるだけに、観るべきか、観ざるべきか、確かに迷いますね。ふむ、どうしましょうか(笑)

最後になりましたが、コメント、ありがとうございました。

静磨 | URL | 2011-08-28(Sun)23:43 [編集]


Re: ヘッセファン

hasutama さん、こんにちは。

確かに、ある程度の年齢を重ねてしまうと、「ヘッセが好き」といいにくい感じはありますね(笑)。
青春文学の作家だ、というイメージが強い、ということでしょうか。
しかし、ヘッセという作家は、どんな年代のひとにも、その年齢に相応しい作品を用意してくれている、という意味で、一生付き合っていくことができる、そんな作家だと私は思っています。
でも、まあ、「シュタイナーが好き」よりは、確かにいいやすいですかね(笑)。

ヘッセのエッセイは、彼が小説家である以前に、あくまでも詩人である、というとこを思い出させてくれます。
そして彼の「神秘主義」的な部分は、散文小説よりも、こうした詩やエッセイにおいてこそ、強く感じられる気がします。
本来は「言葉」になり得ないものを表現してみせる、「言葉の魔術師」としてのヘッセの、真骨頂をみる思いがするのです。
そうした意味でも、私にとってもこの本はずっと大切にしていきたい、すばらしい本だと思っております。

静磨 | URL | 2011-08-29(Mon)00:28 [編集]