FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『ヨブへの答え』

ヨブへの答えヨブへの答え
(1988/03)
C.G. ユング

商品詳細を見る


意識の歴史的変化

 この本を、「紹介する」という形で、何かを書く、ということが、正しいことかどうか、少し不安な部分がある。なぜなら、この本を読むためには、知っておかなければならないことが少なくないからだ。

 いや、決して知ったかぶりをする訳ではないのだが、事実、少なくとも『旧約聖書』の『ヨブ記』のあらすじぐらいは知らないと、もうこの本の題名すら何だかわからないし、そして内容を追っていくにも、ユング心理学のことをある程度知っていないと理解が非常に困難になるだろう。まあ、『ヨブ記』については、本文中で何となく筋を追ってくれるので何とかなるが、やはり、ユング心理学については、何冊か入門書的な、しかしユング自身が書いたものを読んでおくべきだろう。

 それでもなお敢えて、私がこうして記事を書こうとしているのは、この本が本当に面白いと思われるからだ。帯に、「ユングの最高傑作」などと書かれているが、それは大げさでもなんでもないと、私は思う。

 しかし私はユングの専門家などではないし、臨床心理学を本格的に勉強したこともない。だから、私のユングについての知識などたかが知れている。そしてまた、ユダヤ教およびキリスト教という、この本のもうひとつの題材についてもやはり、たいした知識を持っている訳でもない。ただ、聖書を読んだことがありますよ、と、その程度だ(『ヨブ記』だって、エラそうにいうほど、しっかり内容を憶えている訳ではないのです)。

 だから皆さんにご紹介、といっても、本格的な解説のようなことができる訳ではない。できることといえば、この「最高傑作」に触れるための、ちょっとしたお手伝い、それぐらいのものだ。よって今回は、この本で問題とされていることの背景のようなものを、少し考えてみるような形にしようと思う。

 それを信仰するか否かは別として、西洋の文化にとってはキリスト教がきわめて重要なものであることは事実だ。だから、様々なひとたちが、様々なアプローチで、このキリスト教の発生の歴史の解明に挑んでいる。つまり、キリスト教の成り立ちというものについて、『新約聖書』に書かれていることを「信じる」のではなく、史実として一体どういうものだったのか、科学的に解明しよう、というのだ。

 事実としてキリスト教が誕生したのである以上、二千年前に、古来のユダヤ教のなかにある思想的変化があったことは確かなのだろう。その変化の過程を、残された様々な文書を比較検討して、丁寧に辿っていくことがすなわち科学的、文献学的な方法、ということになるのだが、ユングは心理学者なので、こうした方法はとらない。

 「神」、あるいは「神的なもの」とは、人間の心(主に無意識)のあらわれだ、というのが、かなりざっくりしたいいかただが、ユングの考え方だ。だから、この問いに対しても、彼はその「神」に相対する人びとの心の動きを、ひとつひとつ掘り下げていく、という方法をとる。
 
 『ヨブ記』という、この『旧約聖書』のなかでも異彩をはなつ不可解な書物を読み解いていくことによって、人間の心理というものが、キリストの出現以前から以後にかけて、どう変化していったのか、それを浮き彫りにし、そこから、キリスト教の誕生という歴史的事件の、心理的背景を解明しよう、というのが本書におけるユングの意図だ。

 ユダヤ教は非常に古い宗教であり、「バビロン捕囚」の頃に現在あるユダヤ教の形が基礎づけられた、ということはできるかもしれないが、この宗教のそもそもの始まりがいつごろか、などということは、たぶん誰にもいうことはできないだろう。全ての「太古的」宗教と同じく、その発生は人類の発生とほとんど同じころだといってしまっても過言ではないはずだ。

 一方においてキリスト教の成立はというと、それに較べるならばかなり正確に「このころだ」と断ずることができる。つまりそれだけ新しい宗教だ、ということだ。そのキリスト教では、『新約聖書』は勿論、ユダヤ教の『聖書』も、『旧約聖書』というキリスト教的視点からみた名称でではあるが、聖典とされている。(細かくいうと、その扱いは部分的にはかなり相違がみられるのではあるが)。

 それは、教義としては、キリスト教でいう「唯一の神」と、ユダヤ教の「唯一の神」とは全く同じものだ、ということを意味する。だとすると、そこにひとつの疑問が、つまりなぜ、伝統的な宗教がすでに確立されていたところに、キリスト教という新しい宗教が生まれる必然性があったのか、という疑問が生じないだろうか。

 そう、必然性だ。ユダヤ教内の一宗派が、偶発的に主流派と袂をわかち、新しい宗教をひらいた、というだけでは、それはとても世界宗教にまで発展するようなことはなかっただろう。あの時代に、キリスト教が、まさしくあの形で生まれたことには、やはりある強い必然性があったのだ。

 その必然性の正体を見極めるためには、まずはやはり、ユダヤ教とキリスト教との違いをはっきりさせることが一番だろう。その違いこそが、いわばキリスト教の独自性を浮き彫りにし、「ユダヤ教ではない」ものとしての存在理由を物語ってくれるだろうからだ。

 そこで、『旧約』の神と、『新約』の神という、本来「ヤーヴェ」という名の同じものであるはずの神について、注目してみることにする。神というものをいかなるものとしてみるのか、畢竟そこに、宗教というものの性質は左右されるものだからだ。

 『旧約』と『新約』を読み比べてみたならば、その違いははっきりとあらわれる。『旧約』の神は、典型的な「太古の神」の性質を強く持っている。つまり、大昔の人びとが、自然というものを擬人化して「神」と名付けた、あの古代ギリシアや古代ローマの神々、身近なところでは我が国の「八百万の神」などと、多くの点で似通った神だ。

 だからその性質は、ほとんど自然そのものだ。それは多くを恵んでくれるが、また多くを奪いもする。大地を潤す雨を降らせもするが、ときには大洪水でその全てを滅ぼす。善とも悪ともつかない両義性をもった神で、それは人びとにとっては「畏怖」の対象としての、強権的で圧倒的な力としての「あらぶる神」だ。

 一方において『新約』の神とは、つまりはイエス・キリストとしてあらわれたところの「神」だ。正義、というものがそこでは至上の価値をもつ。つまりそれは「絶対善」というものの具現だ。それは「自然」よりは「知恵」(つまり理性)から生まれた神のようにみえる。

 それは道徳的な規範ともいうべきもので、「善」という一義性のなかにあくまでも留まり、その対義としての「悪」は、完全に排斥される。その完全性とはある意味では極端な一面性なのだ。「神」とは一種の道徳的理想像であり、ひとびとにとってそれは超越的な理想の体現としての「憧憬」の対象ともいえるのではないだろうか。

 勿論、こんなにざっくりした印象だけでは、「神」というものの多義性はとても掴みきれるものではないが、しかし新旧の聖書を一読しただけでも、その違いははっきりとみてとれるのだ。『旧約』的神から、『新約』的神への、この変貌。どうして、変わる必要があったのだろうか。

 ユングは、ひとびとの「意識」というもの、そして「無意識」というものの歴史的な変化に、その「神の変貌」の必然性を求める。その詳細は、とても私がここで要約してみせることなど不可能なことだし、この『ヨブへの答え』を読んでいただくのが一番なので、もう余分なことは書かない。ただ、その論のはこびは実に見事であり、そこで主張されることに賛同するか否かは別としても、読むものを夢中にさせずにはおかないものだ、ということだけは、私は請け負うことができる。

 その内容の濃さのわりに、この本は分量的にはかなり小さいほうだ、といえるだろう。それは要点だけが簡潔に論じられているからだろうけれど、そのかわりに、ユング心理学についての基礎的な解説なども一切ないわけで、そのために、前述のように準備的な読書が必要になってしまう。
 
 この本自体は明解ではあるが、そうした意味では少しばかり難解だ、ともいえるかもしれない。私も、今回久しぶりに読み返すにあたり、最近はユングをとんと読んでいなかったせいか、「ユング的視点」を思い出すのに手間取り、初めて読んだときよりも読み進めるのに苦労させられた感があった。

 しかしこの本は、人間の心、というものは、太古から現在に至るまでに、不断に変化し続けてきたということ、すなわち古代人と現代人とは、いやもしかしたら二十世紀初頭の日本人と現代の日本人とでも、同じ「人間」だからといって、意識や無意識のありかたまでもが同じだと考えるべきではないということを、我々に知らしめてくれる。

 さらにまた、「個体発生は系統発生を繰り返す」という、生物発生上の原則が、生理的身体的なものにとどまらず、ユングのいうように人間の心理にもまた適用されるとしたならば、我々個々人もまた、単に経験を積むということにとどまらない、太古的な盲目的衝動からスタートし、それをより近代的な「理性」によってコントロールしていこうという、心というものの基本的なありかたの歴史的変容を、一生の内に不断に経験しているのだということになる。

 つまり、十代の若者の心は、五十歳の大人の心とは、もうその構造からして違うのだ、ということだ。そして「違う」ということをまず認識する、ということこそ、「理解」への近道だとはいえないだろうか。

 こうして、その「とっつきにくさ」を乗り越えさえすれば、この二十世紀を代表する頭脳が生み出した「最高傑作」を、楽しみ、多くの有意義なことを学ぶことができる。しかし、まあ、なにやらこうしてエラソウなことをいっている私も、無論、完全な理解にはほど遠い状態であり、これからも幾度となくチャレンジしなくてはならない、そんな類いの本だと思っている。


関連記事
クリスティ=マレイ 『異端の歴史』 少数意見

スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する