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『著作と文体』

読書について 他二篇 (岩波文庫)読書について 他二篇 (岩波文庫)
(1983/07)
ショウペンハウエル

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ミスター・ノーバディー

このブログで、ショウペンハウアのものを取りあげるのはこれで二度目だ。この『読書について』もまた、前に扱った『自殺について』と同じく、『パレルガ・ウント・パラリポメナ』のなかから抜粋されたものになる。

 この本に収められた三篇、すなわち『思索』、『著作と文体』、『読書について』は、扱われる題材もまたその扱い方も、主著である『意志と表象としての世界』を読んでいなくても特に不自由なく読める類いのもので、その意味では、先の『自殺について』に収録されたものよりも「一般向け」だ、といえるのかもしれない。

 ただ、だからといって「ショウペンハウアらしさ」が少ないか、といえばそんなことは全くなく、彼独特の小気味よい毒舌だとか、思い切りのいい極論だとかは充分に楽しめるので、ショウペンハウア哲学の入門書、というか、最初の「とっかかり」とするにはなかなかよい本だと私は思う。

 で、今回、この本の中で、表題作ではなく、『著作と文体』を選んだのは、他ならぬ、私が今、こうして文章を書いている、このことについて少し考えてみたくなったからだ。

 インターネット上の、掲示板だとかブログだとかにおける、匿名性、というものの問題点については、よく取沙汰される。つまり、匿名であることをいいことに、人種差別的な暴言だとか、有名人への中傷だとか、極右的あるいは極左的な過激な極論だとかを、明らかに大した考えもなく書き込んだり、あるいは、個人のホームページやグログへの「荒らし」行為だとかをしてみたり、そういう類いのことだ。この「匿名」、ということについて、ショウペンハウアはいう。

 「この匿名という物陰に身をひそめることが我が身保全の道であると考えるようになれば、青年たちは信じがたいほど破廉恥な精神のとりことなり、いかなる文筆的悪事にもひるまないことになる。」

 文筆で身を立てる人たちだけではない、誰も彼もがインターネット上にいいたい放題ということになった現代に至り、彼の憂慮は、彼の予想を越えた酷い有様として現実化してしまった、ということだろう。

 ただ、現代にあっては、特にインターネットにおいては、「匿名でなければ危なくてしょうがない」という、19世紀の哲学者には想像もつかない現実もあるので、一概に彼の「先見の明」を賞賛するばかり、という訳にもいかないのかも知れない。つまり、匿名性が、大きな意味での(つまり「法的な」意味に留まらない)「表現の自由」を、保証してくれる部分もある、という訳だ。

 そういった意味では、このブログのような形は、その「匿名による表現の自由」に、かなり頼って成り立っている、というべきだろう。私のような、無名の中年男が、世界的名著について好き勝手なことを、ほとんど何のリスクも負わずに、こうして書きなぐっていられるのだから。

 勿論、そればかり、でもないとも思う。パソコンがあり、インターネットにつながっていれば、いや、携帯電話でもよいのだが、とにかく、ブログの開設や更新には、直接お金はかからない、というのは今や常識だが、一方において、私のような無名の中年男がいくらせっせとブログを書いても、一銭も稼ぐことはできない、というものまた常識だ。

 この市場経済主義の世にあって、こうしてお金によらず、またお金のためでもないものとしてあるがために、私の、あるいは我々無名のブロガーたちの「自由」が、保証されている部分は確かにあると思う。(勿論、こうしてFC2のシステムを利用している以上は、完全に市場経済から脱しているとはいえないのだけれども。)

 この著作と金銭について、我々の哲学者はこういう。

 「ドイツやその他の国でも、現在文学が悲惨をきわめているが、その禍根は著作による金銭獲得にある。金銭の必要な者はだれでも机に向かって本を書く。民衆は愚かにもそれを買う。このような現象に伴って言語が堕落する。」

 ひと昔前までは、書いたものを世に発表するためには、どこかの出版社に認められてどこぞの紙面を割いてもらうか、さもなければ自費で出版する以外になかった。つまりそれは、「著作」というものが、市場経済と分ち難く結びついていたことを意味する。

 インターネットの普及によって、その市場経済から独立した形で、まがりなりにも「著作」を世に問うことができるようになった訳で、そのことによって、企業だとか、「消費者」だとかを考慮する必要もなく、また商品の大量生産よろしく書きなぐることもなく、好きに書けるようになった、というのは確かなのだ。

 だが、こうして図らずも得られた我々のこの自由も、やはり良いことばかり、とはいかない。先に引用したショウペンハウアの言葉の、最後の一文に注意していただきたい。すなわち、「言語の堕落」。この論考において、とくにショウペンハウアが取り上げ、憂慮し、憤っているのが、これだ。

 誰もが、自分の好きに書ける、ということ。この手軽さが、前述の「匿名性によるやりたい放題」と同時に、「言語の堕落」をも生み出しているということ、これもまた確かだと、私は思う。

 かつての、出版社を通してしか著作を発表できなかった時代には、どんな著作であれ、少なくとも発表される前に、筆者以外の誰の眼にも触れない、ということはなかったはずだ。編集者なり誰なりが確認した上で、著作は紙のうえに活字として印刷され、そして初めてそれは世に出ていた。

 しかし、例えばこのブログなどはどうだろうか。私が書き、書き終え、読み返し、良し、と思えばすぐにアップロードだ。その間、私以外の誰の眼にも触れることはない。いや、大概のひとは、自分のブログ記事を、誰かに確認してもらってからアップする、なんて面倒なことはしていないと思うが、どうだろうか。

 もしそうならば、正に世界中から閲覧可能な場所に、客観的な評価、というものを全く受けていない文章が、一分一秒毎に大量に公開されていることになる。このことの「異常性」について考えてみると、何やら恐ろしい気がしてくる。ここでもうひとつ、ちょっと長いがショウペンハウアの言葉を引用してみる。

 「国家は新聞に真剣な考慮をはらって完全無欠な国語を使用させるべきであろう。そのために検閲官を任命するのも一つの方法であろう。すなわち記事の内容にはいっさいふれず、不具畸形の語、あるいは一流の著作者には見あたらない語を用いたり、文法上の誤りや文章構成上のごく些細な誤りを犯したり、前置詞の結合を誤って不当な意味に使ったりした場合には、そのたびごとに罰金として金貨一枚をその新聞記者から徴収するのがその検閲官の任務である。」

 勿論これは、彼一流のユーモアを含んだ極論ではある。だが、ただの冗談だと聞き流すことのできない鋭さが、この一文にはある。検閲官、は極端だが、誰か他人の文章を読み、判断することに長けているひと、例えば出版社の編集者、それも「売れる文章」ではなく「正しい文章」の何たるかを心得ている編集者のようなひとに、客観的に評価されることもなく、完全な「自己判断のみ」で、自著を公にするということの危険性を、この一文は我々に思い知らせてくれる。

 インターネット上において、日本語の文章、というものは確かに変化した。例えばこのブログでも、段落と段落との間に一行の空白が挟まっている。これも勿論、正しい文章の書き方ではないが、大概のグログには、この空白がある。それは画面上で文章を読む、という、「文章の正しい書き方」の成立以後にできた、新しい環境への適応の形だ、といえばそうかも知れない。なぜなら実際、この空白がある方が読みやすいからだ。

 しかし、よくアイドル歌手だとかお笑い芸人だとかのグログにみられるような、あの一、二行の文章と文章との間に、数行に渡る空白が続くようなものは、読みやすさのため、というよりはもう、ページレイアウトのデザイン性を優先したような形であり、私としては、あれは最早「文章」とよぶべきでない、新式の「何か」だ、といいたい。

 これは文章のレイアウトの話だが、文章そのものにも、やはりインターネット上に独特な形、というものがある。それは、文章語であるよりは限りなく口語に、しかもより日常会話に使われる口語に近い形の言葉遣いで書かれる、というものだ。

 これはきっと、日本におけるブログというものの普及の過程や経路が関係しているのだとは思うが、私は正直なところ、パソコンを使い始めたのも、インターネットを利用し始めたのも、世間の平均からすると極端に遅かったので、この辺りのことについては全く知らないので何ともいえない。

 わかるのは、現在の日本語のブログは、この非常にくだけた口語体で書かれることが多い、ということだ。そしてこの口語というものは、普段あまり意識していないが、文法的には実にむちゃくちゃな日本語だ、ということもまた確かなのだ。

 日常会話、とは意味さえ通じればそれでよいので、きっちりとした日本語などは邪魔にさえなる場合もあるだろう。しかし、いくらそれが親しみやすく気軽だからといって、そのまま文字にしてしまうことにはやはり問題があるのだ。この辺りのことについては、ショウペンハウアはこんなことをいっている。

 「話すとおりにものを書こうとするのは、誤った努力である。むしろいかなる文体も碑文的文体の面影を、いく分でも留めているべきである。(中略)話すとおりに書こうとする努力は、その逆の努力、つまり書くとおりに話そうとする努力と同じように否認さるべきである。」

 我々は会話の際には、非常に省略された形の日本語を、無意識的に使っている。あるいは所謂「ら抜き言葉」の使用だとか、代名詞の乱用だとかを、平気でしている。そんな言葉を、文章としてインターネットという「公共の場」で、皆して使っていたのならば、やはり「日本語の文章」というもの全体に何かしらの影響を与えずにはいないだろう。

 勿論、言葉というものは変化していくものではある。しかし、インターネットという新しいシステムによる変化を、古来からの日本語の歴史的な変容と同列に語るのは、ある生き物が、最近百年の急激な環境破壊によって絶滅したことを、長い生物進化の歴史における自然淘汰と同列に語るようなものだ。

 だから、我々、「正しい日本語」の解答をしっている訳ではない名もなきブロガーとしては、とりあえず、匿名性によって守られていることや、書いたものに誰にも文句をいわれないことなどによって、調子に乗ったりなどしないことが大切だろう。我々を律することができるのは、我々自身しかいないのだから。

 我々のこの「自由」を、私は上で「図らずも得られた自由」といった。そう、我々ブロガーのほとんどは、この「自由」を得るために、何の努力もしていないのだ。しかしだからといって、この自由を守るために何もしなくてよいという訳ではないだろう。

 この『著作と文体』を読んでいると、何だか文章を書くことが恐くなってくる。それぐらいに厳しいことをショウペンハウアはいっているのだが、しかし、素人文筆家を気取った私のような人間にとっては、常に正しい日本語の使用を心掛けるべきだ、という自戒の念を忘れないために、こういうものを時折読むべきなのかもしれない。・・・などといいつつ、今日もこんな駄文をアップする私なのであった。

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