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駿府城址、天守台発掘現場見学2


 駿府城址、天守台発掘現場見学2

 
 先日、駿府城址の天守台発掘現場で、かなり大きな発見があった。

 最初の徳川家康による築城から、幕末の廃城に至るまでの駿府城の歴史は、大きく三つに分けられる。

 かつては今川氏の館が、そのさらに前には律令時代の国衙があったともいわれる場所に、家康がまず築城を始めたのが天正十三年(1585年)、すなわち「小牧・長久手の戦い」の翌年である。三河、遠江、駿河に加え、旧武田領である甲斐、信濃までをも配下においた、所謂「五カ国領有時代」の家康の、本拠地としての築城であった。

 しかしこの天正期の駿府城については、どのような、そしてどのくらいの城だったのか、ほとんどわかっていない。記録としては家康の家臣の日記のなかの数語の記述から、石垣と小天守の存在が推測されるのみであり、発掘された遺構としては、直径四十五センチの柱の一部とその礎板がみつかっているばかりである。

 なにゆえに、この天正期の遺構が残されていないのか、といえば、天正十八年(1590年)に小田原の後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が、家康を関東の旧北条領に転封させた上で、中村一氏を入城させて駿府城をすっかり改築してしまったからである。この改築はかなり大規模かつ徹底的だったようで、家康がせっかく築いた最初の城の面影は、永遠に失われてしまった、ということのようだ。しかし盛者必衰万物流転、この豊臣期の駿府城もまた、同じ運命を辿った。

 関ヶ原での歴史的勝利の後、慶長八年(1603年)に征夷大将軍となった家康だったが、二年後にはその将軍の座を秀忠に譲り、大御所となった。慶長十二年、家康はまたしても駿府に自らの居城を築く。全国の大名たちにその工事を負担させる所謂「天下普請」によって、天下人に相応しい巨大な城を、豊臣期の駿府城の上に築かせた訳だが、これによって、豊臣期の城の遺構もまたほとんど破壊されてしまったのだ。

 晩年の家康が、その居城を築くに駿府の地を選んだ理由としては、年少期に今川の人質として過ごした地を懐かしんだとか、江戸への参勤の途中の大名が立ち寄りやすい場所だったとか、山と川に囲まれて攻めにくい土地だったから、などといわれているが、私はきっと、秀吉への意趣返しの意味合いも少なからずあったと思う。かつてせっかく築いた自分の城の上に、秀吉はもっと立派で大きな城を建ててつぶしてしまった。その豊臣を打ち負かした家康は、その秀吉の城を土台にして踏みつける形で、さらに立派な城を築いたのである。

 それはどうあれ、とにかく豊臣期の駿府城もまた、いかなる城であったのかほとんどわからない、という状態であった。しかし先日、その遺構が発見されたのである。現在、駿府城址(駿府公園)の天守台跡において、大規模な発掘調査がなされており、私も何度か見学に行って、ブログ記事にもさせて頂いたのであるが、その発掘現場での発見であった。

 出土したのは、三百点を超える金箔瓦と、豊臣期の天守台の石垣である。これは、本当に、大発見なのである。それを受けて、有り難いことに緊急見学会を開催して、発掘現場を公開してくれる、というので、これは見逃せないとばかり、出掛けてみた。




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 駿府城「中堀」。天気もよく、お散歩がてら発掘現場見学をするには絶好の日和ではあったが、実はこの日、私は健康診断を受け、バリウムを飲んだ関係で下剤を服用しており、何というか、とても体調がよい状態とはいえなかったのであるが、このチャンスの逃す訳にはいかないのである。





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 地図で確認。城跡はこんな形。




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 ここから、「ニノ丸」へ。ここは「北御門跡」。北側は「搦手」側である。どうやら普段はあまり使われない「不明門(あかずのもん)」であったようで、門の規模は大きくはない。往時には門の背後に枡形があった。




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 「北御門」から、公園化された「二ノ丸」及び「本丸」跡を西へむかうと、ほどなく、天守台発掘現場が見えてくる。以前に来たときよりも、現場がかなり広くなっている印象。




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 その傍らに、家康像。




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 こんなものも。静岡県指定天然記念物「家康手植のみかん」。




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 現場の中へ。これは慶長期、すなわち大御所時代の家康が築城した駿府城の天守台の、南西の角である。加工された石材が、キレイに積み上げられている。これは、「打ち込み接」という積み方。




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 南側の辺に沿って東の方向へ進むと、




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 今回の「発見」の現場が現れる。手前の石垣は、慶長期、つまり大御所時代の家康の改築時に築かれた石垣。そして、その奥に列をなすのが、豊臣時代の石垣である。




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 近くから。写真ではちょっと判りにくいかもしれないが、先程の慶長期の「打ち込み接」で積まれた石垣とは明らかに様子が違う。加工しない自然石をそのまま積み上げてあるため、大きな石の間に埋める「間詰め石」という小石が目立つ。この石積み法は「野面積み」といい、豊臣時代に特徴的なものだという。石材となる石の種類が違うので、ちょっと見かけに差があるが、浜松城や二俣城の天守台と、時代も積み方も同じ、ということになる。




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 浜松城。




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 二俣城。

 今回のこの石垣の出土によって、豊臣時代の天守台の規模が正確に判明した。それは東西約33m、南北37mという大きさで、これは安土城などと同等の規模であるようだ。豊臣期の駿府城は、あくまでも秀吉の家臣である中村一氏の居城にすぎないはずなのだが、その城の天守がどうして「天下人」の城と同等の規模で築かれ、金箔瓦で飾られたのか。

 その理由を、現地で解説をしてくれた方は、関東や東北から、秀吉に呼び出されて大阪にやってくる大名たちへ、太閤殿下の威厳をみせつけるためではないか、と説明していた。

 箱根の向こうは家康の領国であり、駿府は、秀吉の支配地域の「玄関口」である。そこの東海道沿いに立派な城を築くことで、東国の大名たちの度肝を抜いてやり、反抗の意志を挫いてやるという訳である。無論、駿河やその周辺の領民に、新しい支配者の力をみせつける意味もあったことだろう。いずれにせよそれは、戦国期の戦う為の山城とは、その存在意義からして別物の、新時代の城の姿であった。

 今回はまだ、金箔瓦の展示はされていなかった。どうやら来年の春ごろに、石垣の見学路の整備などをした上での金箔瓦の公開を予定しているようである。期待して、待とう。



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