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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

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韮山城 その1


 韮山城 その1


 今回は、ちょっと歴史のお勉強をしつつ、城址見学をしていこうと思う。その歴史的背景が、とても面白いからだ。

 伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅の南西、狩野川の畔に、鎌倉幕府おいて執権として一時代を築いた北条氏の屋敷跡があるが、そのそばに、




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 「伝堀越御所跡」。つまり、室町時代、鎌倉公方として鎌倉にはいるはずであった足利政知が、館を構えた、とされている場所である。

 暦応元年(1338年)、足利尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府が開かれた。幕府は京都におかれた訳だが、それ以前の武家政権であったところの鎌倉幕府において政治の中心があった鎌倉には鎌倉府がおかれ、鎌倉公方がそれを采配する体制によって、関東は統治されることとなった。最初の鎌倉公方は尊氏の子である義詮であり、その義詮が二代将軍の座に就いた後はその弟基氏が就任、以後は基氏の家系が世襲することとなった。

 しかしこの鎌倉公方、しだいに室町将軍家に対し反抗的になっていく。元々が将軍の弟の家系であるから、それなりのプライドもあるだろうし、将軍家としても軽く扱う訳にもいかない相手であるから、関東の支配者として振舞うようになったとしても不思議はない。そして実際、関東八州と甲斐、伊豆、さらには陸奥と出羽の計十二カ国については、鎌倉公方が守護の任命までを行うに至り、幕府の支配体制の枠外にあるといってもよい状況にまでなった。

 両家の対立が次第に強まり、さらには鎌倉公方の補佐役である関東管領の上杉家も交える形で具体的な戦乱となったのが、応永二十三年(1416年)の上杉禅宗の乱であり、そして永享十年(1438年)の永享の乱であった。このあたりの混乱が、関東における「戦国時代」的雰囲気を形作ったといい得るだろうし、さらにはこのふたつの戦乱を、幕府の命によって鎮圧するのに尽力したのが、駿河守護である今川氏であったこともまた、後に重大な意味をもってくる、ともいえるだろう。

 永享の乱において鎌倉公方足利持氏は殺され、一時、鎌倉公方は断絶した。しかし嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱において将軍足利義教が殺される、という幕府の混乱のなか、関東武士からの要望もあり、将軍家は持氏の遺児である成氏を鎌倉公方として復帰させてしまった。この成氏は無論、将軍家は父の仇だと思っているから、またしても将軍家に反抗的な姿勢を取るようになった。

 享徳三年(1454年)、ついに成氏は関東管領上杉憲忠を謀殺するに至る。将軍足利義政はこれを将軍家への謀反とみなし、駿河守護今川範忠らに鎌倉攻めを命じる。武力攻撃を受けた成氏は鎌倉を捨て、下総の古河に逃れ、そこに腰を据えて引き続き関東の支配者として采配を振るう。こうして、鎌倉公方は「古河公方」と呼び名を変えることとなった。

 古河公方はおとなしくなるどころかさらにその権勢を強め、関東はほとんど幕府の影響下から外れてしまった。それは中央政権が享徳の年号を改めた後にも、古河公方が享徳を使用し続けたことに象徴されることから、この一連の出来事を「享徳の乱」と呼ぶ。

 将軍義政はこれに対し、幕府が任ずるところの「正当な」鎌倉公方たるべき足利政知を送り出す。政知は義政の兄弟であり、すなわち足利本家の人間であるから、「正当」性の高さという点では古河公方成氏などよりもずっと上である、はずだった。長禄二年(1458年)四月、政知は京を発ち、鎌倉をめざした。しかし伊豆まできたところで、関東の状況が、それ以上の前進を諦めざるを得ないものであることが知れた。もし古河公方側が攻めてきても鎌倉を守れる力はなく、関東管領の上杉氏がどちらに味方するのかもはっきりしなかった。

 そこでしかたなく、政知はそのまま伊豆に居を構え、そこを仮の御所とした。これがすなわち、上掲の写真のところにあったといわれる堀越御所であり、ここに住まった政知は、「堀越公方」と呼ばれることとなった。こうして、関東にふたりの「鎌倉公方」がいる、という異常な状況が生まれた訳である。

 ようやく、たった一枚の写真の説明が終わりました。しかし今回見学した「韮山城跡」にたどりつくには、もう少しお話が続きます(笑)

 古河公方と堀越公方。当然両家は諍いを始めることとなるのだが、その勝負が決まる前に、もっと大規模な戦乱が起こってしまった。すなわち、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱である。その戦乱の最中、遠江において、後に両公方にとっては大きな意味をもつことになる出来事が起こった。

 文明八年(1476年)、遠江に侵攻し、これを奪わんとする駿河守護今川義忠は、遠江守護たる斯波氏側についた勝間田、横地両氏を攻め、その居城たる勝間田城、横地城を落とすが、その帰路に、敵の残党に襲われて戦死してしまう。所謂「塩買坂の戦い」であるが、当主の突然の死は、駿河今川氏に相続争いを生むこととなった。義忠の嫡子龍王丸が未だ六歳と幼年であったために、義忠の従兄弟にあたる小鹿新五郎範満が我こそはと名乗りをあげたのである。この争いに、仲介者として割って入ったのが、伊勢新九郎盛時、後の伊勢宗瑞、すなわち死後に北条早雲と呼ばれることになる人物であった。はい、これでようやく、今回の主人公が登場しました(笑)




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 こちらが現在の塩買坂。(こちらの記事もどうぞ。「塩の道・相良から掛川 その2、塩買坂」)

 義忠の妻、北川殿が宗瑞の姉であったことから、宗瑞はあくまでも龍王丸側の人間として仲介に入った訳であるが、話がややこしいのは、小鹿範満の母方の祖父が、堀越公方足利政知の重臣であった、関東管領上杉氏の一族上杉政憲であったことである。つまりこの今川氏の相続争いには、堀越公方と関東管領の介入があった、ということだ。一方宗瑞はというと、元々は京で幕府の役職に就いていた男であり、しかも、足利将軍家とは血統的に近しい今川氏の、正当な嫡子に家督を継がせようとしていたのであるから、どちらかというと幕府の意向に添って行動していたといえる。つまりこのあたりに、すでに幕府と堀越公方との関係に、ギクシャクしたところが見え始めていたといえるかもしれない。

 この家督争い、一度は宗瑞の提案で、龍王丸が成人するまでは範満が家督を代行する、という形で収まったのであるが、最終的には、長享元年(1487年)に、龍王丸成人後も家督を譲ろうとしない小鹿範満を、宗瑞が武力で排除することになる。この間の出来事として注目すべきは、文明十四年(1482年)に、将軍義政と古河公方成氏とが、なんと和睦してしまうということが起こったことだろう。事態を収拾できない堀越公方を見限った、というところだろうが、堀越公方としては「梯子をはずされた」形ともいえるだろうか。

 いずれにせよ、龍王丸は晴れて今川の家督を継ぐことができた。氏親を名乗った彼は、功労者である宗瑞に、興国寺城と領地を与えている。




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 興国寺城址の様子。

この興国寺城については以前の記事を参照願いたいが(こちら「興国寺城」)、立地としては現在の沼津市の、伊豆ににらみをきかせるには絶好の場所にある。そして宗瑞はこの城を足掛りとして、堀越公方を攻めることになるのである。

 戦国時代の始まりをいつとするのか、これは諸説あるところであるが、今回の記事を書くにあたって大いにその著書を参考にさせて頂いた小和田哲男氏は、この宗瑞の伊豆侵攻をもって、戦国時代の端緒としている。それの是非はおくとしても、少なくとも、この伊豆侵攻に至るまでの関東とその周辺の歴史的動向は、戦国時代というものがどのように醸成されていき、いかなるものとしてあったのか、それをある意味象徴的に理解できるものであるとはいえるのではないだろうか。つまり、幕府の支配体制の瓦解と、地方勢力の台頭とが、どのようにあったのか、ということである。そのために、今回はこんな記事をだらだらと書いてみたのだが、次回にはちゃんと城址に行きますので、どうか、ご寛恕ください(笑)


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