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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

下田街道  三島大社から韮山


 下田街道 三島大社から韮山
 その1 三島宿


 猛暑の続いた八月初頭、ようやく引っ越しのごたごたもある程度落ち着いてきた、ということにしてしまって、久々に出掛けました「スーパーカブ110で行く早朝お散歩史跡めぐりツーリング」。やってきたのはここ、




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 三島大社である。ここで、こんな写真を撮るのは三回目である。最初は吉原宿から三島宿まで旧東海道を走ったときの最後に。二度目は、三島宿から箱根宿を走ったときのスタート時に、であった。で、今回は、ここから南へ伸びていく、旧下田街道を走ってみることにしたのである。時間は、朝の五時半過ぎ。この日の静岡の日の出時刻は4:59だったので、本当は日の出と共にスタートしたかったのだが、寝坊しちゃいました。




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 これが、その「旧下田街道」の大体の道筋である。




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 ちなみに今回の主な参考資料はこちら。この本は以前使った『身延街道』と同じく、三島大社で購入することができる。あ、勿論この日に買った訳じゃあありません。こんな朝早くにはお店は開いていませんから。

 東海道三島宿の、三島大社前から南へ分岐し、天城峠を越えて伊豆半島の南端下田へと至るのが、下田街道と呼ばれる街道である。その歴史の発端についてははっきりしないようではあるが、天武九年(680年)に、それまでは駿河の国の一部であった田方郡と加茂郡の二郡をわけて伊豆の国となされたとき、その国府がおかれたのがどうやら三島であったようで(異説あり)、だとするならば、その国府と伊豆南部とを結ぶ道が、公的な管理下にある、という意味での街道という体を成さないまでも、かなり早くの時期から通じていたと考えることに無理はなかろう。

 そして古代から戦国時代に至るまで、時の情勢だとか支配者の事情だとかで、その道筋を変えてきたとおぼしき下田街道だが、その歴史をここで一気に概観するのはちょっと煩雑にすぎるので、これは街道を走りながら、その史跡などを廻りつつ追々、ということにして、何はともあれ、出発しましょう。今回は、その起点から韮山までを走ろうと思うが、この辺りは源頼朝流刑の地、そして打倒平家の挙兵の地、ということで、主に、頼朝関連の史跡が主になるだろうと思う。では、三島大社の大鳥居前から南へむけて、いざ、出発!




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 ……と勢いをつけていきたいところだが、残念ながら、道は逆向きの一方通行である。いきなりバイクを降りてエンジンを切り、押し歩きながらのスタートである。そういえば、姫街道のスタートも一方通行を歩いたな……。

 現在の「下田街道」と呼ばれている道は、国道1号線から南へ伸びる国道136号線である。私がこれから辿ろうとしている「旧下田街道」は、大体、その136号の東側を南下する県道141号線に重なる。




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 本日の走行予定区間を地図でみると、こんな感じ。ま、とりあえずは大社前の商店街をのんびり歩きましょう。




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 左右に、ちょっと面白いお店。銅板が張ってある。かなり古そう。




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 「史跡 伊豆国分尼寺址」。




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 三島大社から150mか200mぐらいのところに郵便局があり、そのさらに先の信号機のところで、やっと、二車線になってカブに乗ることができた。




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 が、すぐに左手に「言成地蔵尊」。




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 「言成」は、「いうなり」と読む。おかしな名前だが、その由来は悲しい。貞享四年(1687年)、三島宿の六歳の少女小菊が、道の向かい側にいた母親の元へ行こうと、播州明石の松平若狭守直明の行列の前を横切ってしまった。そのため、諸方からの助命願にもかかわらず小菊は手打ちとなった。人々はその少女を哀れんでここに地蔵堂を建てて弔ったのだという。その手打ちの際に小菊が「言いなりになりますから命だけは」と命乞いしたことがこの地蔵の名の由来だというが、現地の解説文によると、数々の助命願にもかかわらず大名の「言いなり」に切られてしまったことから名付けられたという。




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 その解説版の下に、大きな石が横たわる。これは、この辺りにあった「見付橋」に使用されていた石材だという。この辺りが、三島宿の「南見付」すなわち南のはずれであった、ということだ。




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 「言成地蔵尊」の裏手あたりにあるのが、「妻塚観音堂」。こちらの由来も悲しい。伊豆に流刑となっていた源頼朝は、源氏の再興を祈願して、百日の間、三島大社に毎晩参ることを決めた。しかし平家方の山木兼隆は、配下の大庭景親に頼朝を殺すように命じた。景親の妻は源氏と遠い縁のある家の出であったため、夫に頼朝の命乞いをしたが聞き入れられなかった。景親は夜闇にまぎれ、大社に参拝する頼朝を待ち伏せて斬ったところ、それは夫を思いとどめようとした自分の妻であった。景親は悲しみ、そこに塚を建てて妻の菩提を弔ったのだという。




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 再び街道にもどり、50mぐらいで右手に「間眠神社」の看板があるので、その脇道へ右折。




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 その先にあるのが、この「間眠神社」。「まどろみじんじゃ」と読む。これまた、頼朝に関係する由来をもつ。前述の百日の三島大社参りの途上、このあたりにあった祠の脇の松の根元で仮眠を取ったことによるという。

 そしてこの神社の前を南北にはしる細道は、在庁道という。頼朝は平家打倒の成った後にも三島大社への信仰があつく、毎年四度の祭礼の際に参拝することを誓ったが、鎌倉からは遠く、また将軍がいちいち移動するのは大事であり、人々への負担も増えるということで、ここからもう少し南にある安久というところに住む由緒正しい七人の百姓を選んで交代で代参させることにしたという。この七人は「頼朝(らいちょう)」の名で称されることを許された上、征夷大将軍の装束をまとって代参したという。その代参者を在庁奉弊使といい、彼らの住む安久から三島大社へ続く代参の道が、この在庁道(あるいは「らいちょう(頼朝)道』)である、ということらしい。

 ということで、そろそろ三島宿を後にしよう、というところで、次回に続く。



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