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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『椅子のフォークロア』


 椅子の多義性


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 柴田書店 『椅子のフォークロア』 鍵和田務著

 
 久しぶりに、読書感想文です。

 先日、アンティークチェアを購入したことについて記事にした。そこでは、あたかも妻の強い希望に負けて、(私のような貧乏人にとっては)高価な椅子をむりやり買わされたかのように書いてあるが、我が過疎ブログを閲覧してくださる心優しくも賢明なる諸兄諸氏にはとうに御察しの通り、実は妻がアンティークチェアをほしがったことをこれ幸いとばかりに内心ノリノリで椅子を選択し、購入後も毎日眺めてはあれこれ感想だの憶えたての蘊蓄だのを宣って妻を辟易させているのは、この私の方なのである。

 私は椅子が好きなのである。特に、アンティークのものは本当に大好きなのである。理由は自分でもよくわからないが、とにかく好きなのである。アンティークショップで、お店の方にいろいろと椅子について教えて頂いてから、ますますその魅力にはまり込みつつある。

 しかし、好きだからといって椅子についての知識が豊富かというとそんなことは全くなく、その歴史だとか椅子のタイプの名称だとか有名なメーカー名だとか、知っていることなど本当に掛け値なしに皆無であった。そこで、遅ればせながらも少しは知識を得てみようと、早速購入したのがこの『椅子のフォークロア』という本であった。

 初版は1977年。とうに絶版となっていた本であるから、Amazonで古本を探した。販売価格は1000円であった。届いた本は非常に状態のよい初版本であったが、1000円という値段は相場であるようだから、特に希少価値があるような本でもないのだろう。ただ、その内容は実に素晴らしかった。

 文体は簡潔明解。その読みやすい文章に導かれながら、興味を切らされることのないままに通読することで、椅子、というものの歴史の概観を得るに必要充分な情報を、整然とした知識として得ることができた。それはきっと、筆者の叙述が、確固とした観点から語られているからだ、と思う。

 題名の「フォークロア」という語には、様々な意味があるけれども、ここでは、「民俗学」という意味において使用されている。巻末の広告ページに、「柴田書店のフォークロアシリーズ」なるものが数冊紹介されており、本書もその内の一冊であるようなので、もともとは、出版社の企画から与えられる形で選択された言葉なのだろうけれども、筆者である鍵和田務氏が本書において述べようとしていることは、まさに民俗学という語こそが相応しいといえそうだ。

 すなわち本書においては、椅子の歴史というものを単にその形態の変化を追うことによって説明するのではなく、その時々の文化、風習の内にあって、椅子というものが様々な事物を背景としていわば必然的に帰結された形態を獲得して成り立つものとして捉え、その観点から説明し、語られているからだ。

 浅学なる私は筆者の鍵和田氏について何も知らなかったのであるが、巻末の著者紹介によれば、京都大学文学部哲学科で美学美術史を専攻し、とくにヨーロッパの家具調度の歴史的研究に興味を云々とある。これを知れば、その著者の観点なるものも成る程と思わされるものがある。

 冒頭、まず驚かされるのは、椅子というものの起源についての記述である。ちょっと長いが転載する。


 椅子が最初に地上に発生した理由を考える場合に、大多数の人は床や土間に直接座るよりも、椅子に腰かけた方が生活に便利だからだと常識的な結論を出すのである。ところが古代エジプト人や未開部族の人たちの生活などの研究によると、さきの常識説とは相反する結果に到達するのである。つまり古代社会や未開社会の支配者たちが、彼らの権威と地位に応じて、権力者としてふさわしく振舞う必要から椅子が発生したというのである。権力者の王座として、古代から中世そして近世まで、椅子は社会的シンボルとしての役割を果たしてきたのである。
 (『Ⅰ プロローグ・家具のフォークロア』)


 生活において甚だ実用的な椅子という道具の起源が、実用性よりはむしろ支配者や特権者の「高み」という象徴的なものにあったのだとういうのだ。さらにはそれは椅子に限らず家具というもの全体にいえることだとして、著者は、まず「ひとつの家具作品」を成立させる諸要素の内、最も基本となるものとして、「美」と「機能」というふたつを取り上げる。

 さらにそのふたつの要素のうち、「美」の要素を「象徴美」と「機能美」、そして「機能」の要素を「実用的機能」と「象徴的機能」とに分ける。その詳細については割愛するが、まず気になるのは、ここで使用される用語には、何やら同じような言葉が使われていて、こうしてただ並べただけでは少々錯綜気味で速やかな理解が困難であることである(無論、本文を読んだならば理解はきわめて容易である)。

 だがこの「錯綜」そのものに、筆者の主張の肝要な部分があるのだと私には思われる。すなわち、「美」が「象徴」と「機能」をも含み、また「機能」が「象徴」をも含み、と、各要素がそれぞれ複雑に絡み合って、「家具」というひとつのものを成り立たせているために、その諸要素を細分しようとすればどうしてもこういうことにならざるを得ない、ということである。

 人々の(もっとも大きな意味での)生活というものの総体であるところの文化や時代というものと、密接にある家具なるもの。そこに見出される「美」とは単なる装飾ではなく、「機能」もまた単なる実用性や利便性ではない。こうした多義性を捉えるには、なるほど、「民俗学」という大きな視点から概観する必要がありそうである。

 こうした視点を筆者はまず最初の章において読者に提示したうえで、その後に、古代から現代に至るまでの椅子というものの変換を追っていく。上述した「確固たる視点」とはこのことである。本来複雑な多義性のために理解が困難な対象を、一面的な視点で単純化するのではなく、俯瞰的な視点でみつめることによって全体を捉えやすくしている訳だ。この視点が与えられることによって、読者は対象を容易に理解するのである。

 序章の後に詳述される「本編」というべき、各時代、各文化の内に形をなす様々な椅子と、その周囲のエピソード。興味のつきないそれらのエピソードは、こうした前提があればこそ、楽しめもし、理解もできるのであるが、その連なりが現在にまで続いているということは、すなわち、その「多義性」というものもまた現在にも生きている、ということになろう。

 それは単に、「大統領の座」だとか、「社長のイス」だとかとして在る、というに留まらない。椅子というものが「機能」的、実用的なものとして大衆化、一般化したということは、その象徴的な要素もまた、大衆化、一般化したということだからである。

 最も卑近なところでは、家庭内での「自分の椅子」というものがある。もしある家庭の食卓において、家族それぞれの「座る場所」が決まっているのだとしたら、そこは家族の構成員それぞれの「居場所」を意味することになる。場所を学校や会社に移すならば、例えそれが校長室の椅子や役職者の椅子ではなく、一般生徒なり平社員の椅子だったとしても、そこを占有する個人にとっては、それは単なる座るための道具ではなく、自分がそこに「居る」ことを許された「特別な場所」であることをも意味する。

 数年前の失業時代に、私は実体験としてそれを感じたことがあったといえるのかもしれない。街を歩いていて、ある場所にあって仕事をしているひとたちを見るたびに、私は、社会の中で自分の居場所のないことを寂しく、頼りなく思ったものだ。居場所、というものは、自身のアイデンティティの確立のために、きっと、きわめて重要な意味を持っているのだとそのとき痛感した。それは決して物理的な位置の安定や、社会的な地位の安定ばかりを保証するものではない。心理的な安定をも生むのである。

 そう思えば、椅子というものの機能は決して軽視すべきでないものだとも思われてくる。現在私は大型トラックの運転手である。よって居場所はその運転席ということになる。つまらぬ仕事といってしまえばそうかもしれないが、考えてみれば、ウイングタイプの大型トラックの新車価格は、2000万円を遥かに超えるものだ。その運転席を会社から任されているのだと思えば、これは確かに有り難い話だ。何にせよ、その椅子に座ることによって、私の生活が成り立っているのだから、それは少なくとも私にとっては単なる「運転席」以上のものだ、とはいえるのである。

 子供の頃、小学校入学時に、学習机を買ってもらったことを思い出す。それは家庭内で初めて得た「自分の場所」であり、「自分だけの場所」であった。その喜びは、あるいは自分の成長の自覚であり、また、その成長を他の家族に認めてもらえたことの証であったのかもしれない。もしかしたら、私の椅子好きの理由らしきものは、このあたりに見出されるのだろうか。

 という訳で、今回の読書は実に有意義で興味深いものであった。私の椅子趣味、しばらくは続きそうである。


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