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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『虚構の春』

二十世紀旗手 (新潮文庫)二十世紀旗手 (新潮文庫)
(2003/10)
太宰 治

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他人の眼

 先日職場で、休憩時間にふと、あることを思い出し、ちょっと自分のブログを確認したくなった。会社のパソコンなので、あんまり善いことではないのだが、まあいいや、ということにして、自分の机のパソコンをネットにつないだ。

 FC2の管理画面に入るのも面倒だったので、そのまま『乱読乱文多謝』でググった。当然、検索結果として、私のこのブログの記事がずらっと並んだのだが、そのなかに、全然関係ないサイトがまじっていたので、何となく気になって開いてみた。

 するとそこに、「手紙の末尾に「乱文多謝」と書かれることがよくあるが、この「多謝」は誤用だ」、というような文章があり、ちょっとドキッとした。「多謝」というのは、本来「深く感謝する」というような意味であり、乱文であることを「深く謝る」という意味でつかうのは、本来間違った使い方だよ、とそこには書かれてあった。

 これはまずいぞ、と私は思った。他ならぬその誤用を、そのままブログ(しかも読書ブログ!)のタイトルにしてしまっているのだとしたら、こんなに恥かしいことはない。教養のなさがバレバレになってしまう。私は帰宅後、早速辞書を引いてみた。

 まず、『広辞苑』の第五版。買ったはいいが、大きくて重くて、なかなか使うことのないこの辞典には、こうあった。

た-しゃ【多謝】1、厚く礼を述べること。深く感謝すること。2、深く罪をわびる語。多罪。

 おや、2の意味で使用するのも、特に間違いだとは書いていない。しかし疑い深い私は、高校生時代から使っている、ぼろぼろの三省堂の『新明解 国語辞典』第三版も引いてみた。果たせるかな、こう書かれてあった。

たしゃ【多謝】1、厚く礼を述べること。2、丁寧にあやまること。〔2は、「多罪」の誤り〕

 これは、まいった。誤用が一般化してしまう、ということはよくあることなのだが、この「多謝」も、そういうことだったということらしい。しかし、いまさらブログのタイトルを変更するのもなんだかおかしいので、ちょっと、言い訳をさせていただくことにした。

 実はこのタイトル、太宰治の小説にあった言葉を、ちょっともじって使っているのだ。それは、『虚構の春』という、全体が、太宰へ宛てられた手紙のみで成り立っているという、一風変わった小説なのだが、そのはじめの方に、こんな一節がある。

 「・・・いろいろ面倒な御願いで恐縮だがなにとぞよろしく。乱筆乱文多謝。」

 他ならぬ、この小説を読んで初めて、私はこの「多謝」という言葉を知ったのだ。そしてこの「乱筆乱文多謝」という言い回しが何となく気に入ったので、その後何度か、実際に手紙を書いたときにも使ったことがあるし、ブログのタイトルを決めるときも、他にいいアイデアもなく、ふと、この「乱筆乱文多謝」を思い出したので、「乱筆」を「乱読」に換えて使用することにしたのだった。

 つまり、私の間違いは、太宰の間違いなのだ。文句なら太宰にいってくれ。・・・ということで、勘弁していただくことにしてしまおう。それに、誤用だとしても、初出が昭和十一年の小説に、すでに使われている用法なのだし、もう充分一般化しているといってしまってもいいじゃないか、『広辞苑』でも特に間違いだって書いてはいないんだし・・・

 と、開き直ってしまったところで、ついでなので、その『虚構の春』を読むことにした。
新潮文庫の『二十世紀旗手』に、この作品も収録されている。『二十世紀旗手』といえば、例の「生まれて、すみません」という、あまりにも有名なエピグラフで始まる太宰の初期の作品だが、この文庫本に収められている他の六編も、皆同じ頃のものだ。

 この頃の太宰は、『創生記』などはその最たるものといえるが、野心的で奇抜なものが多く、前述の通り、書簡体、といっても往復書簡ではなく、様々な人たちの、筆者に宛てた手紙だけで成り立つこの『虚構の春』も、その典型的なひとつであるといえる。

 私は、実は太宰の中期以降の「文体」こそが、彼の最大の魅力だと思っているので、何だか奇を衒い過ぎている感のある前期のものは、あまり好きではないのだが、この『虚構の春』に関しては、とても面白いと思っている。

 何が面白いかといえば、もう、その手法、それだけだ。この作品自体、ただ、手法、それのみから成り立っているといってしまっていいと思う。だから、この作品の魅力は、それ以外のところにはあり得ない訳だし、逆に、その手法が成功しているからこそ、この作品は魅力ある短編として成り立っているのだ、ともいえることになる。

 自分自身について、一人称で語る、所謂「私小説」的なものを多く書いた太宰だが、この作品に限っては、筆者について語るのは、全て「他者」だ。つまり、自分はこういう人間だ、というのではなく、自分は周囲からこういう風にみられている人間だ、ということを語ることによって、自分というものの姿を読者の前に浮き彫りにさせているのだ。

 我々もまた、ときに自分という人間はどんな人間なのか、自問することがある。そんなときに、他人からみた自分、というものを一切思わず、ただ自分自身の評価のみで、自分がいかなる人間なのかを判断する、などということは、不可能だし、もし可能だとしたところでそんなものは無意味だといえないだろうか。

 例えば、本人が自分は優しい人間だといいはっていたとしても、周囲の皆から「彼は無神経で残酷だ」といわれるならば、そのひとは無神経で残酷な人間だというべきだろう。一生懸命仕事をしているつもりでも、同僚や上司から評価されないひとは、やはりどこか足りない部分があるのだ。勿論彼はそれを不服に思うだろうが、しかし、優しいというも有能だというも、他との比較によって下される評価なのであり、それには「客観的判断」というものが必要で、逆に「自己判断」などは願望に左右される分だけ邪魔になるものだ。

 しかし反対に、純粋に他人の評価のみを集め、それによって自分という人間が、さて周囲の小社会のなかでいかなる人間としてみられ、どんな位置におかれているのか、それを判断することは可能だし、有意義だといえるだろう。客体がなければ主体もまたあり得ない。「自分の位置」というものは、他者との関係性の内にしかあり得ないのだし、そうである以上は、「実際の位置」を知らずして、「求める位置」を得ることはできないのだから。

 そうした意味において、この『虚構の春』の、自分宛の手紙のなかに語られる自分というもののみによって、自分を語る、という手法は、非常に示唆に富んだものだといえないだろうか。

 究極においては、自分で自分を語る他はないのが、現代文学というものだと私は思っている。「懐疑のための懐疑」によって、自己を見失ってしまったのが若き日の太宰だったのだが、それでもなお、こうした手法によって自己を見出そうとすることができた、というあたり、やはり彼は天性の文学者だったのだと私は思う。

 その手法は確かに奇抜だった。しかしその奇抜さは、単に奇を衒うためのものではない、故あっての奇抜さだったのだ。だからこそ、私はこの短編を高く評価したいと思う。

 そしてまた、異常なまでの自意識の過剰に苦しんだ太宰にとって、「他人の眼」は、恐ろしいものであると同時に、救いでもあったのではないだろうか。

 その評価がどうあれ、誰かから「あなたはこういう人間だよ」といわれることは、自意識の堂々巡りに苦しむ彼のような典型的「現代人」にとっては、牢獄の窓から吹きこむ外界の風のように、外の世界、つまり自己に対する客体というものの、広大な世界が確かに存在することの、証であるといえるからだ。

 ということで、太宰へのオマージュも込める意味で、ブログタイトルはそのままでいくことにします。「あ、多謝を間違って使ってる、馬鹿だなあ」といわれることがあっても、それは仕方がないでしょう。他人様の評価は尊重しなくてはなりませんし、なにより実際、それが誤用であることを、私は知らなかったのですから。



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