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石脇城


 石脇城




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 花沢城址から南へ直線距離で1km弱、東名高速道路日本坂パーキングエリアの近くに、石脇城址はある。




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 入り口。前の道は、国道150号線の山側を並行して走る裏道であるが、これはどうやら、日本坂峠へと続いていた旧東海道の名残であるようだ。




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 入り口から50mぐらいに、解説版。




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 金属製でなかなか立派。その解説文を転載。


   石脇城跡

 この城は、北の高崎山から南へ枝分かれする尾根の先端の標高三十メートルの「城山」に所在する。十五世紀(室町中期頃)の駿河守護職で後の戦国大名今川氏の属城(支城)と推定され、範囲は南北約二二〇メートル、東西一三〇メートルと考えられる。
 山裾の西から南へ流れる堀川を外堀とし、山頂の第一曲輪、中腹の第二曲輪、その第二曲輪を堀切って隔てた南端の外曲輪と、附属曲輪五〜六ヶ所からなると云われており、第一曲輪と考えられる山頂には土塁の痕跡が残っている。城主については記録がないが、江戸時代に編まれた地誌「駿河記」によると、文明年間(一四六九〜一四八六)に今川義忠が伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を石脇城に住まわせたとある。
 (後略)



 前回記事の花沢城と、あまりに近所にあるこの石脇城。花沢城のほうの築城時期が不明なので、このふたつの城の関係性について考えるのはちょっと難しいが、少なくとも、歴史の舞台となった時期については両者にズレがあるようである。




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 解説版のところから坂を登っていくと、鳥居があらわれる。




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 鳥居の先に、小さな社。「城山八幡宮」。




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 その前に、縄張り図が展示してあった。汚損のためちょっとみにくいが、この神社がある辺りが、上掲解説文の謂う「外曲輪」であろう。




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 そしてこちらが、神社の北側にある「第二曲輪」。




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 このふたつの曲輪の境界あたりから、山の反対側に降りる道をたどると、




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 もうひとつ、曲輪らしき平坦地が。写真右手の斜面の上が、先程の「第二曲輪」になる。




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 入り口の鳥居に戻り、そこから北へ続く道を辿ると、墓地の先に石段がある。




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 石段の上に、「大日堂」。




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 そしてその「大日堂」裏手のひろがり。ここが、城の主郭部、「第一曲輪」になる。




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 「第一曲輪」から、「第二曲輪」を見下ろす。

 「応仁の乱」の最中、文明八年(1476年)の「塩買坂の戦い」における六代当主義忠の討ち死にの後に、駿河今川氏に家督争いが生じる。義忠の嫡子龍王丸が当時まだ六歳ぐらいであったために、あまりにも幼少にすぎるとの声が家中にあがり、義忠の従兄弟にあたる小鹿新五郎範満というひとが名乗りをあげたのだった。

 この範満という人物、義忠の父範忠の弟の子なのであるが、その母が、上杉政憲という堀越公方北条政知の重臣の娘であったために、この家督争いに北条政知が介入し、話がややこしくなってしまったらしい。

 ここで登場したのが伊勢新九郎盛時すなわち後の北条早雲であった。これは義忠の正室北川殿が、新九郎の姉であった関係からであった。彼は、龍王丸が成人するまで、小鹿範満が家督を代行する、という折衷案を範満に提示した。龍王丸が幼少であることを理由にその家督相続を否定していた範満としては、これを拒否する道理が立たない訳で、本意か否かは別としてこの提案を受け入れた。

 龍王丸は、家督争いが生じた段階ですでに母北川殿共々、前々回の記事で扱った、この石脇城からは数kmしか離れていない「法永長者屋敷」すなわち小川城に隠れていたらしい。

 すると、上掲の解説文にあった、「文明年間に今川義忠が伊勢新九郎盛時を石脇城に住まわせた」という記述が思いだされる。政敵のいる駿府とは山を隔てており、山城ではなく居住性に優れた平地の城館であり、しかも、近くに信頼できる伊勢新九郎の城であるこの石脇城がある小川城は、確かに、隠れ家としては良い選択だったといえそうだ。

 範満との合議が成ったことで、龍王丸は宇津ノ谷峠の東にあり、後に東海道の宿場町となる丸子に館を築いて、そこに住まったようである。成人して今川の家督相続者として駿府に戻るまでの仮の宿、ということだが、しかしその家督相続は順調にはいかなかった。

 小鹿範満は、龍王丸が成人しても駿府に居座り、家督を返そうとしなかった。そこでついに伊勢新九郎は武力に訴えて範満を襲うこととなる。そのとき新九郎は京都にいたのであるが、駿河にもどって、まずはこの石脇城に入ったことはどうやら文書で確認できるようである。

 しかし、石脇城は未完成のままである、という見方があるようで、そうだとすると、範満との戦いに備えてこのとき初めて石脇城は新九郎によって築城が始められたものの、完成前に駿府襲撃の機を得て新九郎は城を出てしまい、城は未完のまま放置された、とみるべきということになるようだ。

 すると、解説文にある「今川義忠が伊勢新九郎盛時を石脇城に住まわせた」という一文と矛盾することになる。このあたりは、どちらの説が正しいのか、私には材料がないので判断できないが、いずれにせよ、範満を打倒して龍王丸の家督相続を成功させた新九郎は、その恩賞として駿河東部に興国寺城と領地とを与えられ、もう石脇城に戻ることはなかったようである。城はそのまま廃城となった、と考えるのが自然であろうか。

 そして、新九郎はやがて堀越公方を襲って伊豆を奪い、後の関東の雄、後北条氏誕生の第一歩を踏み出す。一方龍王丸は駿河今川氏七代目当主として今川氏親を名乗り、今川氏を守護大名から戦国大名へと生まれ変わらせる。時代は戦国の世へと一気に流れていく訳である。

 ではこのあたりで、今回の日本坂峠とその周辺の史跡めぐりはおしまい。そろそろ春も近づいてきた。暖かくなり、日の出が早くなったら、どこかへまた出掛けようと思っている。乞うご期待。




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 おまけ。石脇城址の北側に、かつてこの「城山」の東西にあったふたつの村をつないでいた小道。大きな街道ではない、こうした人々の生活の内に身近にあったであろう小道が残っているというのは、嬉しいことだ。


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