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花沢城


 花沢城




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 「花沢の里」の観光駐車場から、日本坂峠へと向かう道とは反対の方向に伸びる道を進むと、




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 集落を抜けて坂を登った先に、ちょっとややこしい形をした五叉路に出る。




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 その左手に、「花沢城入り口」がある。その解説文を転載。


 花沢城は、日本坂から小坂へ至るルートをおさえる西の守りとして今川方によって築かれた戦国時代の山城です。
 築城時期は明らかではありませんが、武田信玄による駿河侵攻にともない激戦地となったことで著名です。
 (中略)
 今川領国に甲斐の武田信玄が侵攻を開始したのは永禄11年(1568)のことです。(中略)永禄13年(元亀元年)、今川家臣岡部氏を傘下に入れた信玄は、山西地域への侵攻を開始しました。このとき、花沢城の守りにあたってたのが小原肥前守資良です。(中略)攻撃は正月四日に開始されましたが、天然の要害を利用した城のつくりと、今川方の勇猛な抗戦により、城が墜ちたのは正月27日のことです。花沢城を墜とした信玄は、つづいて長谷川正長が守る徳一色城(のちの田中城)を墜とし、山西地域を支配下に置きました。

 (後略)




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 縄張り図もあった。これをみる限り、あまり規模の大きい城ではなさそうだが。




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 そして、ここへ来るときに登ってきた坂道。この切り通しも、堀の名残だと図に書いてあった。つまり、一応すでに城域に入っている、ということか。




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 そして、「一ノ曲輪」及び「二ノ曲輪」に至る道も、図にあった。それに従って、登り口へ向かう。




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 お、ここか。さあ、登ろう。




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 とはいえ、すでに日本坂峠への峠道を往復している私には、なかなかしんどい上り坂である。




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 坂の途中から見下ろす。人や物資が通うための峠道は、なるべく通りやすいような造りの道になっているものであるが、山城へ登る道は違う。山城というものは攻められないために、険しく急峻な山の上に築かれるものなので、必然的に、そこへ至る道も険しいものとなる。




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 薮を抜けると、視界がひらけ、頂上付近が見えた。道は、谷を登るように続いている。この谷、形としてはちょうど竪堀のような具合だが、先程の縄張り図をみる限り、堀にしては城の大きさに比して規模が大きすぎるような気もする。やはり自然地形だろうか。




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 さらに登ると、




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 頂上へ。さあ、つきました、「一ノ曲輪」です。




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 石碑もあった。なかなか立派。




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 「一ノ曲輪」を見回す。けっこうな広さがある。




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 「二ノ曲輪」の方向へと歩いていく。




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 堀切を発見。これが、二つの曲輪を分けている。




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 「二ノ曲輪」入り口。




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 そして、曲輪の様子。こちらはまるきり薮に覆われている。それほど深い薮ではないが、これ以上は進まずに「一ノ曲輪」にもどる。




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 「一ノ曲輪」の反対方向のはずれ。




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 その先の薮のなか。人工的な地形に見えなくもない。縄張り図によればこちらにも曲輪があったはずなので、遺構である可能性はある。




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 石碑のそばに、こんなものが掲示してあった。これはどうやら、城全体の縄張り図のようだ。右の「2番」が今いる「一ノ曲輪」であるから、入り口にあった縄張り図は、城の主格部のみのものだった、ということになる。全体としては、かなりの規模があったようだ。




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 すると、登ってきたこの谷は、やはり「竪堀」だろうか。城がこんなに大きなものだったとするならば、この規模の竪堀があったとしても不思議ではなさそうな気もするが、ただ、この城は武田の城ではなく、今川の城である。竪堀のような「先進的」な設備を備えていたとはちょっと思えない。この縄張り図にも、竪堀としては記載されていないようだ。どうやら、自然地形を上手く利用して、この谷に竪堀的な役割を担わせていた、とするのが妥当なところのような気もする。ま、いずれも素人考えに過ぎませんが(笑)

 解説文にあった城将小原資良というひとは、駿河今川氏の重臣だったひとで、義元の時代には、三河の吉田城(豊橋市)の城代として今川氏の三河支配における重要な役割を担った。桶狭間における義元の死後も後継者の氏真に従い、今川から離反した松平元康改め徳川家康やその追従勢力に対抗し、三河・遠江を舞台に今川の領国を守るべく転戦、活躍したようだ。

 永禄十一年(1568年)末に始まった武田信玄の駿河侵攻により、今川氏真は駿府を追われ掛川城に入った。しかし今度は西から家康の攻撃を受け、永禄十二年五月に掛川城は開城、氏真は小田原の北条氏の元に逃れている。

 よって信玄がこの花沢城を攻めたのは、もう掛川城が落ちてから半年以上も過ぎた後だったことになる。最早主君を失った状態であった訳だが、それでも小原資良とその配下の城兵たちは奮戦し、武田勢を大いに苦しめたようである。

 しかし孤立無援の花沢城は最終的には落城し、資良は落ち延びて、遠江の高天神城の小笠原氏を頼って身を寄せたが、小笠原氏は既に家康に通じており、資良は妻子諸共殺されたという。これはどうやら、資良が吉田城の城代だった折、今川に反旗をひるがえした家康に対する報復として、吉田城にいた家康の家臣の人質たちを皆殺しにしたことに、家康が激怒していたためだという。無論、資良としては主君たる氏真の命に従っただけではあったろうが、これも因果応報、というものであろう。

 


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 「一ノ曲輪」からの眺望。焼津の街が一望できる。

 さて、花沢城址見学はこれまで。しかしこの近所にもうひとつ、城跡があるので、次回はそちらに。


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