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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

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掛塚灯台


 掛塚灯台




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 掛塚灯台は、天竜川河口の左岸にある。




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 ロケーションからして素晴らしい。




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 近づいてみる。




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 細部のデザインがいい。




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 灯台の足元から、天竜川河口、そしてその先の遠州灘を望む。

 掛塚、とは、このあたりの地名である。かつてこの天竜川河口には、掛塚湊、という湊があった。

 文献上に「懸塚(掛塚)」の名前が最初に確認できるのは、文明十七年(1485年)の、とある僧侶の日記だという。この僧侶は、「応仁の乱」の混乱を避けて京から東国へ逃れる途上、掛塚に寄ったようで、その記述から、すでにこの頃には掛塚は、定期の船便や宿泊施設等、湊としての機能をある程度は備えていたことが知れるという。

 戦国時代、桶狭間に義元が討ち死にして以降、弱体化した今川氏を武田信玄が攻め、今川氏真が駿府から掛川に逃れたのが永禄十一年(1568年)。しかし翌年には今度は徳川家康が掛川城を攻め、氏真は籠城してこれに対抗するも、結局は講和開城という形で降伏した。文字通り身ひとつで城を出た氏真は、妻の実家である小田原の北条氏を頼り、そこに身を寄せることにしたのであるが、東への陸路は当然、武田の軍勢がひしめいている訳で危険極まりない状況である。そこで氏真は海路を選び、掛塚湊から船に乗っている。

 また、その後武田氏と駿河・遠江を奪いあうこととなった徳川氏が、武田方の城である諏訪原城を攻める際(天正三年・1575年)には、家康自身もこの掛塚湊から船に乗って海路で諏訪原城へ向かっているようで、どうやら、この時期には掛塚湊は徳川の軍港として使用されていたらしい。

 天竜川流域の木材については、豊臣秀吉がすでに建築資材として伐採をさせているが、それは徳川の時代となっても当然続いていった。いやむしろ、徳川幕府治下、太平の世となって都市が発達し、木材の需要は増加していっただろう。伐採され、天竜川を下ってくる原木だの木材だのは、皆河口の掛塚湊を通過していく。また、廻米の輸送も掛塚の廻船問屋が請け負っていたようで、掛塚湊は、「遠州の小江戸」と呼ばれるほどの活況を呈した。

 その活況は時代が明治となってもなお続いた。否、幕府の制限が取り払われて、商業や物流の自由度がぐんと増したことで、廻船業の需要はさらに増した。しかし同時に、こうして物量が増えると、元来が自然地形を利用した湊で、水深が浅く大型船の航行が困難であるという掛塚湊の弱点が露呈されることとなった。

 新港建設の協議が始まったのが明治七年(1874年)、完成は明治十八年十二月であった。古来の掛塚湊は、近代的な港湾施設である掛塚港として生まれ変わった。すると必要とされたのが、灯台であった。

 掛塚港の灯台は、まず「改心灯台」として既に明治十三年には完成していた。しかしこれは、荒井信敬というひとが、遠州灘の天竜川河口付近での船の遭難が多いことを憂慮して、私費を投じて建設した「私設灯台」であった。さらにその初期の運用も彼の私費に寄っていたようで、荒井はその維持運用費捻出のために、自身の酒代すら節約していたという。そうした状況は、明治十八年に、船主や廻船問屋などからなる、掛塚港の管理会社である「豊長社」に移管されるまで続いた。

 しかしその移管後まもなく、そうした私設灯台自体が廃止されることとなったため、その「改心灯台」の後を受けて建設されたが、現在みられる官製の「掛塚灯台」である。完成は明治三十年(1897年)三月であった。

 だが、こうした掛塚港の近代化事業と同時進行的に進められていたのが、鉄道の敷設事業であった。明治二十二年(1889年)の東海道線の全線開通と同時に、天竜川流域の木材の鉄道輸送が開始されている。そして国家の近代化の象徴である鉄道の発展は、天候による干渉が大きく不安定な水上輸送から、その需要を急速に奪っていった。港湾設備の充実を物語る灯台の完成は、逆にいうならばそれは海上輸送というものの危険性、不確実性をも物語っているのである。

 速度においても、安全性においても他を圧倒する鉄道に、古来の廻船が対抗する手段はなかった。折角近代的に改修されて生まれ変わった掛塚港であったが、完成から30年ほどでその役割を終えてしまい、後には灯台だけが残った。かつての港の繁栄の姿を、その残滓だけでも見出そうとすることは、今となっては困難である。




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 しかしその明治生まれの灯台は、今なお現役の灯台として稼働し、沖をゆく船の航路を照らすばかりではなく、そのノスタルジックな姿で、我々の眼をも楽しませてくれている、という訳だ。




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