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身延街道(興津ー境川) その1


 身延街道(興津ー境川) その1
 その概要と歴史


 12月最初の日曜日。なにやら仕事だの雑用だの体調不良だの天候不順だのによって、この秋はまるきりカブで遊びに行けず、ブログネタの枯渇が続いていたのだが、ようやく半日、時間が取れた。しかし、はや季節は晩秋を過ぎて初冬へ、日の出と共に開始されるわがお散歩ツーリングにとっては、夜明けは遅いし寒いしで、厳しい季節になってしまった。

 そこで、静岡市の自宅からはとても近いところにある身延街道の旧道を走ってみることにした。ここならばスタート地点まで30分とかからないし、最近、とてもよい資料が手に入ったのだ。




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 静岡県教育委員会文化課編 『静岡県歴史の道 身延街道』


 これである。街道の歴史だとか、史跡の詳細な情報なども書かれているし、なにより、




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 付属しているこの地図が優れもので、古い道筋が、現在の地図の上に正確に書かれている。発行が平成十年とちょっと古いのだが、それは最新のグーグルなどをみて、変化した部分を自分で訂正すれば良いだけである。

 ということで、旧身延街道めぐりの条件は整った。朝の5時起床、5時40分ごろ出発、少しずつ明るむ東の空に山の稜線が姿をあらわし始めるのをながめながら、途中で愛車スーパーカブ110の給油をし、コンビニにも寄って自分の腹ごしらえもし、そして六時過ぎ、




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 旧東海道である国道1号線の、この交差点を西から来て左折したところにある、




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 旧身延街道起点に到着、である。ここから、北、すなわち山梨方面に向けて走って行く訳である。




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 地図で確認。これが、身延街道の全体。南の起点は静岡市清水区興津、すなわち、旧東海道の興津宿からの分岐で、北の起点は甲府市相生での旧甲州街道からの分岐である。




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 で、我が守備範囲である、静岡県内の部分。今回は南の起点から、この部分の北端である県境を目差す。

 富士山と南アルプスという、日本有数の高山に隔てられた駿河と甲斐。その間隙を縫うように、甲州から流れ出て駿河湾に至るのが富士川であり、この富士川に大体沿って南北に伸びているのが身延街道である。

 「身延街道」、あるいは「身延道」という名称で呼ばれるのは、無論、その途上に日蓮宗の総本山であるところの「身延山久遠寺」があるからである。つまり駿河、甲斐双方からの身延山巡礼の道として利用された為に生まれた呼称という訳だが、呼び名は他にも幾つかある。

 甲斐へと至る道、ということで駿河の側からは「甲州往還」、逆に甲斐の側からは「駿州往還」などとも呼ばれた。あるいは甲斐の側からの呼び名としては、甲斐九筋と呼ばれる九本の街道のうちのひとつとして、河内路、というものもある。江戸時代には道中奉行が管理した公式の脇往還であったが、その正式な名称は「駿甲脇往還」であったという。しかし現在なお多く使用されているのは、「国道52号線」を別にするならば「身延街道」の名称であろう。よってこの記事においては「身延街道」と呼称することにする。

 だが実は、駿河国内において、東海道から甲州との国境へと伸びる、「身延街道」と呼ばれるべき道は、三筋ある。地図でみると、こんな具合だ。




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 1は興津宿、2は由比宿、3は東海道の富士川の渡し場があった岩渕を、それぞれ起点としている。江戸幕府の道中奉行が公式の脇往還としたのは、この内の興津起点のコースだったが、こちらは主に東海道を西から来て身延山を目指した旅人たちが利用し、東から来た旅人は富士川を渡ったらそのまま川沿いを北上、すなわち3のコースを辿ることが多かったという。ただ、歴史的には最初に発展したのは真ん中の2の由比起点のコースであったようだ。

 身延街道全体の起源、というものははっきりしない。ただ、沿岸部と内陸部とを繋ぐ通商の道、即ち所謂「塩の道」として古来から何らかの形で通っていた道筋であったことは想像に難くない。以下、上記『身延街道』を主に参照しつつ、街道の歴史を簡単に。

 身延山に日蓮が草庵を建てたのが文永十一年(1274年)、これを始まりとして、彼の後継者たちによって久遠寺が完成されたのは文明七年(1475年)であった。寺院の発展と日蓮宗の全国的な広がりが、「巡礼の道」の発展を促したのは確かだろう。だが身延街道が、為政者、あるいは支配者たちの意志によって整備されるようになり、資料にもはっきりとみられるようになるのは、戦国時代になってからであった。つまり、主に軍事上の必要が、街道の発達を促したのである。

 上述の通り、まずは由比起点のコースが整備された。天文十一年(1552年)十一月、駿河の今川義元の娘が、甲斐の武田信玄の当時の嫡男、義信の元に輿入れしている。武田、北条、今川の所謂「甲相駿三国同盟」のための政略結婚であるが、この際に花嫁が辿った道も、由比からの身延街道であった。

 その後、桶狭間の戦いを機にその三国同盟が破綻、永禄十一年(1568年)末に、信玄は駿河に侵攻する。その際もまた、武田軍は越境後内房を経て由比へ抜けている。これによって、信玄は由比の東にある蒲原城を素通りした上で、そのまま西の薩埵峠でまず今川軍と会戦することとなる。

 この辺りのことは、以前の記事でちょっと詳しく触れているので読んで頂けると有り難いが(こちら「蒲原城、再訪 その1」、「横山城 その1」)、最初の侵攻においてあっという間に駿府を落とし、今川氏真を掛川に追いやった信玄だが、今川支援に動いた東からの北条の素早い後詰めに薩埵峠までを奪われ、なんとか興津の北にある横山城を確保、興津から甲斐に引くこととなった。よって信玄の帰路は図らずも興津起点のルートだったことになり、このルートがこの時点で一応通ってはいたことは確認できるといえるだろう。

 その後の再侵攻によって信玄が駿河の支配権をより強固にし、穴山信君が江尻城に城主として入るに及び、甲斐・駿河間の連絡路はさらに重要度を増し、武田氏はこの街道にも伝馬制を整備している。だがその武田氏も天正十年(1582年)に滅亡する。信君は武田を見限り、織田に臣従することで、甲斐の河内領および駿河の江尻領を安堵された。よって身延街道はその信君の管理下にあって維持された訳であるが、信長が本能寺に討ち死にし、その混乱の内に信君も討たれたのを機に状況は変化し、この由比を起点とするルートは廃れていくこととなったという。

 つまりその後、世は戦乱の時代が終わりに向かい、身延街道からは軍事的意味は薄れ、巡礼の道としての性格が強まっていくなか、東海道の東西から身延山をめざしてやってくる人々にとっては、わざわざ由比まで行く必要はなく、西からなら興津から、東からなら岩渕から「近道」すれば良い訳で、その結果、由比ルートのかわりに興津・岩渕ルートが発展した、ということのようである。

 で、今回はその内の「興津起点コース」を辿ってみよう、という訳である。東海道などと違い、あくまでもローカルな脇街道なので、それほど眼を惹くような史跡がたくさんある訳ではない。古い道標や道祖神、石碑など、街道沿いにあった遺物を辿っていくことで、ああ、昔はこんな所に道が通っていたんだなあ、と確認していくような具合になる。地味といえば地味ではあるが、旧街道めぐりとはそういうものだろう。それはそれで、なかなか面白いのである。では、出発……しようと思ったが、長くなったので、次回に続く。


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