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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

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賤機山城 その2


 賤機山城 その2




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 尾根伝いに山道は続く。




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 急に登り坂になったと思ったら、




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 一気に下り、なにやら狭く小さな谷間に。おや? これは……




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 道の左右の様子。これは、「堀切」じゃないか?




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 だとすると、もう城跡に着いたことになるが。ちょっと先に進んでみる。




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 これは、土塁のように見える。




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 では、その背後のこの平坦地は、曲輪ということになる。




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 ここで道が二つに分かれていた。とりあえず、左へ。




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 こんな感じ。右手の盛り上がりは、土塁のようだ。左手は斜面。ということは、この盛土の向こうには曲輪があるのか? というか、ホントにここはもう城跡内なのかな?




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 お、何かあった。




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 目的地、賤機山城跡に到着です。やはり、見てきた地形は城の遺構だったようだ。ここは城の中核、「本曲輪」であろう。「麓山神社」から、だいたい30分ぐらいでした。




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 ちょっと長いが、解説文を転載。


   賤機山城

 賤機山城は、南北朝の動乱期(十四世紀)に、北朝方の今川氏が、安倍川西岸の安倍城に本拠を構える南朝方の狩野氏の備えて築き、南北朝期以降は今川館の詰城としての役割を果たしていたと考えられている。
 永禄十一年(一五六八)には武田信玄の駿府侵攻によってその支配に降り、さらに天正十年(一五八二)の徳川家康の駿府入りにより廃城となった。城は南北に続く賤機山の主尾根上及びそこから派生する支尾根上に築かれており、その範囲は東西約四〇〇M、南北約六〇〇M以上にわたる。要所には尾根を横切るかたちで大小の堀切が設けられ、敵の容易な侵入を防いでいる。
 城の中心部は今川氏の菩提寺である臨済寺をほぼ真下に見下ろす尾根上にあり、三つの主要曲輪から構成されている。この曲輪部分は城のなかで最も標高が高い尾根上にあり(最高約一七三M)、静岡平野を一望に見渡せる好所にある。




 長きに渡って駿河国守護として君臨した今川氏。その居館であるところの今川館は、後に駿府城が築かれた場所にあった、とされているから、この城がその「詰め城」だった、と考えるのは自然である。またその立地から、安倍川対岸の南朝方の安倍城に対抗するために築かれた、とすることにも無理はなさそうである。

 ただその築城時期が、上記の理由等をもって解説文の通り南北朝の争乱期だとすると、それは駿河今川氏の初代である範国の時代、ということになるが、これでは、今川氏は三代目ぐらいまではその本拠を花倉(現在の藤枝市)に置いていた、とされている通説と整合が取れない。

 小和田哲男氏は著書の中で、範国の時代にはすでに今川氏は駿府に移っていた可能性を示唆しているが、このあたりとも考え合わせると面白い気がする。ただ、築城は第四代の範政の時代だ、とする説も有力視されているようで、それならば、南北朝時代にはまだこの城はなかった、で話はすんでしまうことにはなる。またさらに、七代目の氏親の築城だ、という説もあるようだ。つまり、よくわかっていない、ということか。

 ちょっと休憩した後、とりあえず、「本曲輪」の南側、すなわち先程の別れ道を右へ行った方に、行ってみる。




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 こんな感じ。「本曲輪」から、南の方を見ている。明らかに「曲輪」である。高さ的には、「本曲輪」よりも一段低い感じ。写真右側の薮が茂っている辺りは、高さのある土塁だろう。さっきは、この土塁の向こう側を歩いてきた、というわけだ。




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 また「本曲輪」に戻って、あらためて見渡す。曲輪の南から西側にかけて、高い土塁がみられる。




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 では今度は、北の方にいってみよう。




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 早速ちいさな曲輪。




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 そこから、北側、つまりこれから向かう方向を眺める。深い薮のためにわかりにくいが、階段状の曲輪が、幾つか連なっているようだ。その連なりの西側に道があるので、進んでみる。




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 道の左、つまり西側は斜面。曲輪のつらなりは右側にある。このあたりでは、土塁らしきものはみつけられなかった。




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 下り坂が急になる。やはり階段状の曲輪らしきものがみられる。




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 その坂を下りきった辺り。「堀切」、のようだ。




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 左右の様子。やはりこれは「堀切」だろう。城の北端、かな。




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 「堀切」の先。ハイキングコースは続いているが、城跡らしさはなくなったようだ。薮が一段と深くなっているので、ぱっと見では地形がわからないけれど。

 全体の形としては、一番高いところの「本曲輪」を中心として、南北に伸びる尾根上に、それぞれ階段状の曲輪を並べた「連郭式」で、南北両端にそれぞれ「深い堀切」を設けてあると、そんなところだろうか。上記解説文によれば、東西にも400mの幅がある、というから、両側の斜面上にも多分曲輪等が幾つか設けられているのだろう。ちょっと確認できなかったが。

 元々は今川氏の城であるが、現在みられる遺構には、今川の城よりも進んだ技術がみられる、ということで、武田氏によって手が加えられている、とみられているそうだ。確かに、南北の堀切などはいかにも「武田っぽい」感じだった。また、高い土塁が「西側」にばかりみられた、というのも、何だか気になった。今川ならば、きっと武田の侵攻にそなえて東側を強化するだろう。西に備えるのは、徳川を警戒する武田、ということになるんじゃないかな、と素人なりに考えてみた訳です。

 いずれにせよ、この武田による改修が、築城時期をわからなくしてしまった、という部分は小さくないだろう。つまり、遺構の特徴から、築城時期を推測することができなくなってしまっている訳だ。今川の城は、ほとんど、武田か、そうでなければ徳川によって「改造」されている。まあ、それだけ時代遅れだったのだろう。

 今回は真っ昼間に行った山城見学だったが、幸い、この日は八月にしては涼しく、山歩きもしやすかった。まあ、汗だくにはなりましたが。というところで、今回はおしまい。それでは、また。


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