FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『デミアン』

デミアン (新潮文庫)デミアン (新潮文庫)
(1951/11)
ヘッセ

商品詳細を見る


読むに相応しいとき

 私がこの本を初めて読んだのは、二十年ほど前の話だ。しかも、古本屋で買ったので、最後のページを開いてみたならば、「昭和五十五年 十月十五日 五十五刷」と記されている。こうなるともう古本らしさ、というか、風格みたいなものを、こんな文庫本でも持つようになる。茶色がかったページだとか、あの甘いようなカビ臭いような独特のにおいだとか、使い込んだ辞書のようなしっとりとした手触りのやわらかさだとか。

 これで、この本を読むのが何度目になるのか、もうわからない。愛読書、といっていい。だから、この奇妙な物語をどう読み解くのか、私なりにその方法を持っている。ユング心理学で読み解くのが早道だし、多分最も正当な方法だろう。

 私は二十代の後半に、ユングをよく読んだ。しかし私は心理学者ではない。だからユングを、臨床心理学の学説であるよりは、ひとつの思想、美学あるいは詩学として読んだのだが、ユングを、私と同じような形で扱うひとは多いと思う。多分、ヘッセもそのひとりだろう。だから、ユングの「思想」の基本的な概念を知っている人には、この『デミアン』は理解しやすいものだ、ということができる。

 しかし、理解することだけが、本を楽しむということではない。いや、楽しむ、ということさえも、ある本と接するにあたって、必要ないこともある。ただ圧倒されることだったり、ひたすらに深い悩みに沈み込められることだったり、どうにもならない強烈な反感ばかりを覚えるということだけに終止する読書、というものも確かにある。私にとっては、初めて読んだときの『デミアン』はまさしくそういう本であったし、それだからこそ、今に至るまで愛読書として読み続けていられるのだろう。

 そう、初めて読んだときの『デミアン』は、私にとってはただ面白いというばかりの本ではなかった。終止圧倒され、なにやらおかしな興奮状態のまま、次の一行、次の言葉に引きずられるように、一気に読み通したような感じだった。

 それこそ、ユング的にいうならばそれは、「コンプレクスを刺激された」ということにでもなるのかもしれない。とにかく、どこが、とか、何が、という訳ではなく、この作品全体がもつものに、すっかり取り込まれてしまった感覚だ。特に、第五章の辺りでそれは顕著になり、私は全く、「読書」という行為に没入してしまった。

 それは焦燥感に似ており、物語の先へ先へと、動悸の高まりを覚えるほどに気が急くのだが、その一方において、ずっとこのまま、この本を読み終えることなく、読み続けていることを願うような、そんな矛盾した感情も相俟って、実に不思議な、現実から遊離したような感覚のなかでの読書だった。

 で、読後感は、というと、何やら呆けたようなため息とともに、脱力感に襲われるような、どちらかというと身体的な疲労感ばかりを覚え、ただ、何かすごい本を読んだんだな、という感覚ばかりで、詳しい内容についてはあまり記憶にない、そんな具合だった。本来読書というものは、文字を読んで理解する作業であり、それは主に論理的思考的作業になるのだが、このときは、ほとんど感性的感覚的に読書をした、といってしまってもよさそうな感じだったのだ。

 こういう読書が、良いものなのかどうなのか、そんなことはわからない。ただ、この本とはこれから長い間、もしかしたら一生涯にわたって、耽読するなり、熟考するなり、何らかの形で関わっていかなければならないな、と、そのときにはもう直観的に思ったし、実際、少なくともそれから二十年間は、何度も読むことになったのだった。

 こういう言い方はまたしてもユング的だし、よって『デミアン』的だともいえるのだが、私はこの本を、読むべきときに読んだのだ、と思っている。潜在的にか顕在的にか、当時の私はまさしくこういう本を、正しくはこの本が謂わんとしているようなことを求めていたのであり、そしてその求めに応える形で、偶然にか必然にか、この本が与えられたのだ。
 
 だから私は、本の細かな内容よりも、自身の求めに応えてもらった、その喜びばかりを感じていたと、つまりはあの読書はそういうことだったのだと、今は思っている。

 しかし、「齢不惑に至らんと」する今また、なんらかの本との出会いによって、あのような経験ができるものだろうか。それは無理な話だと、私は思う。歳を重ねると、実生活における経験も、読書における経験も、それなりに豊富になる。そのことによって我々は、何が起こっても、またどんな本を読んでも、それを自分なりに分析し、判断することがより巧くなっていく。

 つまり経験が豊富である、ということは、様々な出来事に対応することを繰り返すことによって、自分なりの判断基準を構築し、新たな経験にもそれによって対応する準備を整えている、ということなのだ。それは読書の場合には、どんな本を読んでも、自分なりにそれをとらえ、自分なりに理解し、自分なりに評価できるようになる、ということだ。

 それがすなわち、歳相応の落ち着き、というものなのだろう。だから、私ぐらいの中年男になると、本によって、善くも悪くも心を乱される、ということはほとんど起こらなくなる。上述のユング心理学もそのひとつだが、判断の方法は幾つかもっているし、自分の嗜好もある程度固まっている。あとは批判的に判断し、善いと思われたものは取り入れ、悪いと思われたものは捨てるだけだ。

 勿論、私のその「判断基準」などたかが知れたものであり、そんなにエラそうなことがいえるようなゴタイソウなものではないのだが、それでも、自分なりにどんな本でもなんとか読みこなす用意は一応できている、という訳だ。だから、『デミアン』のような本に、二十年前のように不意打ちを喰うようなことにもならない、はずだ。

 だが、こうして「自分のやりかた」を確立してしまう、ということは、逆に、初めて接するものを、新しく感じる、ということができなくなる、ということをも意味する。それは実は、文学を楽しむ、という観点からいうならば、あるとても大切なものを、失ってしまうことではないだろうか。

 冷静に、論理的に、批判的に読むということ。例えばこの『デミアン』を、ユング的に「解釈」して、それで「解決」してしまうこと。それにはそれの楽しみが確かにある。しかし、文学とは本来、「解釈」し「解決」するものではないはずだ。思想的背景だの、詩学的方法論だのについてあれこれ考えることと、二十年前のように、文庫本一冊に、熱に浮かされたようにのめり込んでしまうことと、さて、どちらが「文学を楽し」んでいるといえるだろうか。

 そう、確かに、私は『デミアン』と、相応しいときに出会ったのだった。早すぎても、遅すぎても、あんな読書経験はできなかっただろう。私にはあのとき、この本を理解することはできなかった。しかし、あのような出会いができたおかげで、この本を愛することができ、その後も何度も読み、そして、私なりに理解することができるに至った。これは本当に、かけがえのない出来事だというべきなのだ。

 若い頃には、確かに熱狂しすぎる、ということがある。しかし、まずはそういう「若き熱狂」をもって読むべき本、というものがあるのだ。理解だとか、解釈だとかは、その後に幾らでもできる。しかし瑞々しい感性によって、新鮮に「感じとる」ことは、経験が少なく、何もかもが新しくみえる、若者にしかできないことなのだ。

 だから、この『デミアン』もそうだが、ゲーテの『ファウスト』、ニーチェの『ツァラツストラ』、ボードレールの『悪の華』、ドストエフスキーの『罪と罰』などといった本は、若いうちに一度は読んでおくべきだといえるだろう。これらは、確かに若いうちには理解できないものだ。そのときはわかった気になっても、その後に折に触れて自分の理解不足を思い知らされ、だんだん自信がなくなってくる。『ファウスト』などは、私は最近では、人前で「読んだことがあります」ということさえ何だか怖い気がする。

 しかし理解はできなくても、ぜひとも若いうちに「感受して」おくべきなのだ。それは本当に、ある年齢に達する以前にしかできないことなのであり、後からどんなに後悔しても、もうどうにもならなくなってしまう。

 全身全霊をあげて感動する、ということ。それは若者の特権だ。逆にいうならば、それができるうちはまだ若者だ、といえる。だから、特に十代の若い人たち、ミステリーや芥川賞受賞作、ライトノベルなどもいいけれど、たまにはオッサンのいうことをきいて、歴史的名著と呼ばれるような文学に触れてみてください。それは決して、古くさい老人向けの本ではありません。まさしくあなた方若者たちのために、書かれた本なのです。

 さあ、早速、まずは『ウェルテル』を買いに古本屋にいきましょう。たぶん100円あれば買えますので。

スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する