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駿府城址、天守台発掘現場見学 その2


駿府城址、天守台発掘現場見学
 その2 駿府城の歴史



 駿府城の歴史については、ちょうど一年ほど前に、城跡内を一通り歩いてまわったときの記事で扱ったが(こちら「日々の出来事29・駿府城址見学」)、再び、ちょっと別の角度から、取り上げてみよう。

 駿府城のある場所、すなわち静岡市中心市街地の発展は、律令時代に国府が置かれた辺りにその発端を見出せるようだ。国衙の正確な所在地については未だわかっていないようだが、駿府城址のある場所が、その有力な候補地だ、とはいえるようである。それを裏付けるような出土品が出てきていることもあるが、この場所の地理的条件も、それを支持しているといえそうだ。

 現在、静岡市中心部の西を、ひとつの大きな流れとして、直線的に海を目指している安倍川であるが、少なくともこの駿府を「隠居の場」と定めた家康が大々的な治水工事をするまでは、もっと東、駿府城址に近いところを、城の北にある浅間神社のあたりから分流し、幾つもの流れとなって、広がっていたようである。それはつまり、この土地が水害の起こりやすい場所であったことを意味する。

 そうしたなかにあって駿府城址は、周辺では最も標高の高い場所にある。つまりこの場所は、最も水害を受けにくい場所なのである。よって、律令時代の支配者たちの機関である国衙が、この「最も良い場所」を占有していたであろうことは容易に想像される、という訳である。だから、室町時代になってから、駿河の守護としてこの駿府を本拠とした駿河今川氏の館もこの場所にあったし(こちらも正確な場所の特定はできていないようだが)、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、いよいよ五カ国領有の一大勢力の首領となった家康も、その居城をここに築くことと定めた。

 この、天正十二年に築城が開始された、最初の駿府城であるところの、いわば「天正期の駿府城」であるが、記録らしい記録が残っていないようで、いかなる城であったのか、ほとんどわかっていないらしい。わずかに、家康の家臣の日記の記述から、石垣の堀と、小天守の存在が推測されるのみである。そして家康がこの最初期の駿府城にいられたものも、数年に過ぎなかった。

 天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は史上空前の大軍勢をもって、関東の雄、北条氏を滅ぼした。そしてその北条氏が領有していた関東は、家康が受け継ぐこととなった。小田原攻めの戦陣をつとめた家康に、その報償として関東が与えられた、というのがこの転封の表向きの理由とされるが、秀吉にとっては、家康を関西からより遠ざける意味のほうが大きかっただろう。秀吉は、家康のいなくなった駿府城に、重臣中村一氏を入城させた。駿府城の歴史における、第二期、とでもすべき、豊臣時代が始まる訳である。

 この時期の駿府城の改築について、興味深いことを書いてあった本を最近読んだので、ちょっとご紹介。




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 サンライズ出版 『静岡の城』 加藤理文著
 ISBN978-4-88325-460-6



 駿府城のみならず、遠江、駿河あたりにある重要拠点といえる城(浜松城や二俣城、横須賀城など)には、軒並み豊臣の家臣たちが配置された。この本の著者によると、静岡県内の城に、瓦というものが使用されるようになったのは、この豊臣系の大名たちの入封が最初だ、という。瓦のみならず、石垣の本格的な使用も、このときだそうだ。それまでの戦国期においては、この遠江、駿河あたりを含む東日本では、瓦も石垣もほとんど使用されることはなかった。

 無論、地理的な、あるいは戦術的な理由、または資材の入手の難易度の差などを考慮すれば、単純にどちらが「優れている」か、などという比較はしづらいのだが、日本の城の歴史的変換という観点からみたならば、やはり東日本よりは、西日本のほうが技術的には先行していた、といえるだろう。つまり、この豊臣系の大名の入封によって、関西の先進的な築城技術が、一気に流入してきた訳である。

 浜松城、二俣城、掛川城等、旧徳川領にあった主要な城は、皆改築され、石垣や天守を備えた「先進的」な姿に生まれ変わった。




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 浜松城の石垣。




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 そして二俣城の天守台の石垣。両者共、「野面積み」というこの豊臣時代に特徴的な石積みの技術によって積まれている。




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 こちらは掛川城の復興天守。この今川氏最期の地である城に天守が築かれたのも、秀吉の重臣である山内一豊が城主となったときだった。

 そして、駿府城である。中村一氏が、十四万五千石で入封したという駿府城も、「天正期」の姿から生まれ変わることとなった。今回発掘されたという金箔瓦は、この「豊臣時代」のものだとされている。残念ながら、この時期の駿府城についても、ほとんどわかっていないということだが、石垣と天守、そして金箔を施されて光り輝く瓦屋根を備えた、巨大な建造物を初めて目の当たりにした駿府の人々は、その驚嘆すべき姿を、いかなる思いで見上げたことだろうか。

 『静岡の城』の著者は、秀吉によるこの駿府城やその他の城の改築は、領民へのこの視覚的効果を狙ったものではなかったか、としている。つまり、「戦う城」としての機能の強化というよりは、「天下人」としての新しい支配者である自らの威光を、効果的に領民に知らしめよう、というものである。秀吉にとっては、依然最も警戒すべき相手である関東の家康から西国を守るには、確かに、城の強化などよりは、駿河や遠江の安定支配の確立のほうが重要視すべきであったとはいえそうである。だが、この「豊臣時代」も、そう長くは続かなかった。

 家康が関ヶ原に勝利した後、征夷大将軍となったのが慶長八年(1603年)。全国にその新しい支配体制を構築していく、その一環として、「大御所」家康の居城としての駿府城改築の事業が始められた。

 所謂「天下普請」、国家的事業として開始され、完成した駿府城改築。しかしそれは改築というよりは、ほとんど立て替え新築、としたほうが妥当だとすべきであるようだ。上で触れたように、最初期の「天正期」の駿府城どころか、前段階である「豊臣時代」の駿府城の姿でさえ、その姿はほとんどわからなくなってしまっている。その記録が残っていないこともそうだが、なによりも、この「慶長期」の工事によって、それ以前の遺構がほぼ完全に失われてしまった、ということが大きいだろう。

 駿府城の現存する石垣には、「打ち込み接ぎ」、「切り込み接ぎ」ばかりで、豊臣時代に積まれた二俣城や浜松城の石垣のような「野面積み」はみられない。今回の天守台の発掘のみならず、過去の発掘においても、「天正期」、「豊臣時代」の石垣等はみつかっていないようだ。慶長期の普請がいかに大規模で、徹底的なものであったのか、ここからも知れるというものであろう。これでは、いったい慶長以前の駿府城の縄張りがどのような形でどれくらいの規模だったのかすら、全くわからない。

 それほどの大工事によって建設され、しかも、いったんは完成した天守が火災によって焼け落ちるというトラブルまであったにもかかわらず、大御所家康の居城としての駿府城は完成した。




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 天守台発掘現場に展示してあった、駿府城と江戸城との天守台の大きさ比較図。右が江戸城、左が駿府城であるが、その大きさの差は一目瞭然、面積でいうならば二倍以上もの広さがあったようだ。この駿府城が大御所家康の居城であった時期、駿府は実質的な日本の首都機能を担っていたともいわれる。

 しかし、慶長二十年(1615年)の大阪夏の陣で豊臣を滅ぼした後、元和二年(1616年)に家康が死去すると、その駿府城の栄華にも翳りがみえてくる。慶長十年(1609年)にはすでに、駿府城の城主は、駿河・遠江の領主である徳川頼宣(家康の十男)であったが、その頼宣も元和五年(1619年)には和歌山城に移り、紀州徳川家の初代当主となったため、しばらく駿府城には城主がいなかった。

 寛永元年(1624年)になってようやく、二代将軍秀忠の三男、忠長が城主として入城するが、寛永九年には、兄である三代将軍家光によって改易された。この、もしかしたら将軍職の後継者となれたかもしれなかった、またそれ故に不幸な生涯を送り、そして自害というこれまた不幸な最期を遂げなければならなかった城主忠長の退去を最後に、それ以降、駿府城に城主がおかれることはなかった。

 城主不在となってからの駿府城は、どんどん荒れていったようである。そして寛永十二年(1635年)にはまたしても火災にあい、このときに天守は焼け落ち、それきり再建されることはなかった。慶長十五年(1610年)の落成からわずか25年で、東照大権現ゆかりの駿府城から、天守は失われてしまったのである。

 その後も宝永の地震、安政の地震など、いくども災害にあって建物や石垣に深刻な被害を受けながらも、修復を受けてなんとか城としての体裁を保っていた駿府城であるが、明治になってその役割を終えると、老朽化した建物の取り壊しや払い下げが進められ、明治二十九年(1896年)に陸軍歩兵第三十四連隊が置かれるに至って、中堀は埋め立てられ、このときに天守台も取り壊された。

 その天守台を、120年後の現在になって、こうして掘り起こし、調査している、という訳である。今回、金箔瓦という、豊臣時代の遺物と思われるものが出土し、江戸時代以前の駿府城についての貴重な手がかりが得られたのであるが、発掘調査は今後も続き、その対象範囲を広げていようなので、豊臣時代、のみならず、家康の五カ国領有時代、さらにはもしかしたら今川時代の遺構などもみつかるんじゃないか、などと、勝手な期待を膨らませている次第である。

 ということで、子供の散髪もそろそろ終わりそうなので、今回はここまで。最近、山城跡を観に行ってないなあ。近いうちに行きたい、とは思うのだけれど、暑いんだよね……(笑)



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