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『戦う操縦士』その2

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)
(2001/08)
アントワーヌ ド・サン=テグジュペリ

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反「人間」的なものとの戦い

 アラス周辺に展開したドイツの機甲部隊の動向を探る、というよりは、崩壊しつつある祖国フランスの惨状を思い知らされつつ、自身もその惨禍に巻き込まれて命を落とすことを義務づけられたような、そんな無謀で無意味な偵察任務に就いた、作者サン=テグジュペリ

 逃げ惑う人びとの群れや、彼自身もその一員である、敗走のうちに解体しつつあるフランス軍。それは、気の遠くなるような年月をかけて、少しずつ積み重ねられ、形作られ、育まれ、そしてようやく今ある姿に至った、文化や文明というもの、信仰や慣習によって結び合わされた人びとのささやかな「共同体」というものが、その結びつきを断たれ、元の無秩序なちらばりにかえっていく、悲しくも醜悪なる終焉の姿だった。

 その瓦解にのみこまれつつあった彼だったが、あるときを境に、変化を見せ始める。それはこの本でいうところの、第十七章だ。もっと細かくいうならば、章の中頃にある、この一文だ。曰く、

 「だが、きみが愛していた女がトラックにひかれたとして、きみはその女の醜さをあげつらいにゆくだろうか?」

 つまり彼は、今敗北の過程にあり、混乱した醜態を晒すフランスの姿ではなく、世界を相手に戦争を始めたドイツの隣国として、その侵略の「犠牲となることを受諾した点で」、フランスという国は評価されるべきだ、ということに気づいたのだ。

 ドイツと戦争をする、ということになれば、こういう事態に陥るであろうことは、もう初めからわかりきったことだった。「三人の敵兵にひとりの兵士を、工場労働者に農民を、なんの幻想もなく対決」させるものである以上、この戦争は、フランスが負けるものと初めから決まっていた。しかしフランスは戦争を拒絶しなかったのだ。

 この決定的な一文のうちに、作者は、ある決意をしたのだ。それは、フランスが負うこととなったこの運命を、受け入れる、ということだ。ここから、彼は再び、あの我々がよく知る、『夜間飛行』の、あるいは『人間の土地』のサン=テグジュペリに立ち返っていく。その姿は、我々読者を感動させずにはいない。

 「わたしたちは、ひとつの大義を共通の大義であると考えて、その名のもとに戦っている。単にフランスの自由ではなく、世界の自由がいま賭けられているのだ。審判者という対場はあまりに居心地がよすぎるとわたしたちは考えている。審判者たちを裁いているのはわたしたちのほうだ。」

 そこに、いま起こるすべては意味を見出す。避難民の右往左往も、フランス軍の敗走も、そしてこの無謀な偵察飛行任務もだ。その全ては確かに、戦争というものの「悲惨」の具現だろう。しかしそれはただ「悲惨」であるばかりではなく、同時にフランスという国の尊さの具現でもあるのだ。「フランスの自由」は蹂躙された。しかし、自由を放棄して敵に屈することを拒絶し、蹂躙されることを選んだことによって、「フランスの自由」はその価値を高めたのだと、作者はいっているのではないだろうか。そしてさらに問う。ならば世界は、「世界の自由」のために、どういう路をえらぶのか、と。

 やがて彼の偵察機は、目的地に近づいていく。対空砲のお出迎えが当然予想されるアラスに向けて、高度七百メートルまで降下していくということが、自殺行為に他ならないことは、充分すぎるほどに理解している。それでも彼は降下していく。フランスが、自由のために犠牲になろうとしている今このときに、彼がフランス人であり、フランス軍の軍人であり、三三-二飛行大隊の一員であるが故に、だ。

 そう、彼が再び、自分がある「共同体」に属していることを思い出したとき、その「共同体」に帰属するために果たすべき義務の神聖さをも、彼は思い出したのだ。そして目的地点、アラス上空七百メートル。たった一機の偵察機に、敵の対空砲火は集中される。一撃で機体をバラバラにする対空砲弾の炸裂するなか、彼は偵察任務を遂行する。

 一瞬後の死を覚悟しながらの飛行のうちに、一瞬毎の生の更新を見出していく彼。そして、奇跡的な生還。帰路に着いた彼が想うのは、祖国の再生についてだった。この小さな成功にかかわらず、彼が出撃の準備をしていたときと今とで、祖国が崩壊しつつあることには何の違いもなかった。しかしいまや彼は、任務遂行前とは正反対を向いていた。

 そして語られるのは、「人間」についてだ。「人間」とは、「関係の結び目」だ、という。それについての細かなことを、私はここで解説しようとは思わない。それはまさしく、著者の言葉に耳を傾けて知るべきことであって、私の不器用な言葉によって語られるべきものではないからだ。ただ、次の一文をだけ引用しておこう。もっとも端的に、彼の考え方をあらわしていると思われるからだ。

 「なぜなら、わたしの文明の説く「人間」は、個々の人間から出発しては定義されないものだからだ。個々の人間は、「人間」によってはじめて定義される。「人間」のうちには、すべての「存在」におけると同様、その構成要素である素材からは説明されないあるものがある。大聖堂は石材の総和とはまさに別のものだ。それは幾何学と建築学である。大聖堂を定義するものは石材ではなく、逆に大聖堂のほうが、その固有の意味内容によって石材を豊かにしているのだ。」

 「人間」、つまりそれは、今ばらばらになって逃げ惑う群衆が、廃残兵が、かつて形作っていたところのもの、例えば家族であったり、村や街であったり、あるいは一個の歩兵小隊であったり、フランス陸軍であったり、ひいてはフランスであったり、という形をもってあらわされていた、様々な「共同体」のことをいうのであり、こうした「共同体」の一員としてでなければ、つまりひとつの「大聖堂」の一部を担う存在でなければ、個人、というものはただの素材、「石材」でしかないのだ、と彼はいうのだ。

 ここで私は、最初の問題にやっと立ち戻ることができる。そう、この本が、いかにして「『わが闘争』への最良の返答」たり得ているのか、ということだ。

 サン=テグジュペリのいうところと、ヒトラーの「全体主義」を比較してみるとき、奇妙な共通点があることに、すぐに気付く。ヒトラーの「全体主義」は、「純粋に個人的な関心を喜んで無視しようという気持ちが増大すればするほど、ますます包括的な共同体を建設する能力も高まる」のだとし、「エゴイズムや私利」を敵視する。

 一方においてサン=テグジュペリもまた、「個別的なものの崇敬は死しかもたらさない」といい、「個人に対する「人間」の優越」のために」戦う、という。個人の軽視と、全体の重視、という点で両者は共通しているようにみえないだろうか。

 しかしここで、両者の決定的な違いを知ることこそが、実はまさにこの『戦う操縦士』が、「『わが闘争』への最良の返答」たることの最も核心的な点に触れることになるのだと、私には思われる。

 まず、ヒトラーの主張をもう少しよくみてみる。ヒトラーは、「全体主義」の理想へ向かう志操をよく内在するという点で、「アーリア人」の優越を主張し、その正反対の志操の持ち主であることを理由に「ユダヤ人」を蔑視する。つまりユダヤ人には「共同体への奉仕」などというものは全くなく、あるのは我利我利の利己主義のみだとし、そうした「ユダヤ的傾向」の行き着く先にこそ「衆愚政治」たる民主主義がある、という文脈において、自らの「全体主義」を肯定し、民主主義を否定する。

 その人種差別主義にはここでは触れないとして、ようするにヒトラーは、基本的には愚劣で自分勝手な「大衆」という多数者の意見によって、気まぐれにあちこちへと向きを変える民主主義など捨て去り、全体の発展という高い理想に全国民が自己犠牲的奉仕によって邁進する「全体主義」をこそ選ぶべきだ、と主張するのだ。

 ここにひとつの、民主主義へのヒトラーの誤解(あるいは意図的な曲解)がある。そして実は、今日の日本においても、この民主主義への誤解はよくみられる。そしてサン=テグジュペリの主張は、この誤解を正すことによって、ヒトラーへの反論となり得ているのだと、私は思う。それはどういうことか。

 端的にいってしまうのならば、行き過ぎた個人主義は、「反社会的」だ、という意味において、「全体主義」にとっては勿論、民主主義にとっても敵だ、ということだ。数ある社会制度のうちのひとつであるところの民主主義を選ぶからには、まずもって、つきつめれば文字通りの「万人の万人に対する戦い」に行き着く個人主義ではなく、自分勝手は許されないが、社会、あるいは「共同体」に帰属することを選ばなくてはならない。だがそれはつまり、「社会的動物」であるところの人間という生き物の本然に立つことを意味するのだから、人間にとっては自然な選択だ、といえよう。

 (ついでに付記しておくならば、「万人の万人に対する戦い」の状態を、「人間の自然状態」とするホッブズの、あるいはルソーの意見は、現代の自然科学によって否定されている、と私は考える。非社会的であることは、人間の本性に反した状態だと考えた方が合理的だからだ。チンパンジーも社会をもつ。原始時代の人間だとて、社会をもたないはずはないだろう。)

 そう、民主主義は決して、無闇にその構成員たちそれぞれの「個人的事情」を、いちいち尊重してくれるような、そんな誰にでも都合の良いようなものではない。それは社会全体が良きものであるために生まれた「社会制度」であり、公共の利益こそをその一義的な目的としているのであって、「個人の尊重」というものとは本来全く無関係なものなのだ。

 このことを理解しないと、民主主義は確かに容易に衆愚政治に堕することになるだろう。直接民主制が、注意深く避けられてきたのは実はこのためなのだ。最近、軽々しく国民投票の必要性などが主張されるのは、こうしたことへの理解がなされず、「自分勝手」な個人主義ばかりがはびこっているせいだろう。そして日本の民主主義がうまく機能していないとしたならば、それは政治家の無能のせいであるよりは、もしかしたら、我々国民の身勝手のせいかもしれないのだ。

 だから、この「反個人主義」の点では、実際ヒトラーとサン=テグジュペリは立場を同じくしているのだ。よって、「全体主義」と民主主義の対立を、「全体主義」と個人主義の対立にすり替えてしまうヒトラーの詭弁に巻き込まれることなく、はっきりと民主主義と個人主義の対立、という構図を認識して初めて、その先に、ヒトラーとサン=テグジュペリの対立点を見出すことができるのだ。

 そしてその対立点について・・・は、なんだか思ったより長くなってしまったので、次回に続く、ということにします。


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