FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

旧瀬名村にみられる瀬名氏の足跡 その1


 旧瀬名村にみられる瀬名氏の足跡 その1


 三月に入ってから、年度末の多忙に、なにやら軽微なれども長く続く体調不良も重なって、最近、更新が滞っておりました。よって、私の育った街、そして今現在私が生活している街、という、えらくローカルな話題が今回の記事の対象となりましたが、どうか、ご寛恕ください。

 先日、静岡市の市街地を東西に走る、北街道、という中世の東海道の後身というべき街道をカブで走ったとき、瀬名川という街を通った(詳しくはこちら「カブで史跡めぐり 48・北街道 その3、旧瀬名川宿にみる東海道の歴史」)。その瀬名川の北側には、瀬名、という街がある。




sena1kai_convert_20170405181508.png

sena2kai_convert_20170405181527.png

 地図で確認すると、こんな感じ。

 このあたりは、江戸時代から明治二十二年までは「瀬名村」と呼ばれていた。「瀬名(せな)」という地名自体はそれよりも遥かに古い。藤原定家の息子であり歌人の藤原為家が、建長五年(1253年)の東下りの際に詠んだ歌、


 せな川や早瀬をたえず行水(ゆくみず)に
 いも恋わたる泪なるらん



 の、「せな川」とは、現在でいうところの、瀬名の西側を流れる長尾川のことである。そしてさらに古い話では、この辺りから出土した平安時代の木簡からも、「西奈(せな)」の文字が確認されているようである。

 ただ日本の歴史において、「瀬名」の二文字からまず思い出されるのは、やはり、かの「瀬名姫」であろう。すなわち、徳川家康の正室、築山御前である。静岡市の片隅のちいさな街の名前が、いきなり全国区の歴史上の人物とつながってしまったが、このあたりのことを、今回は扱ってみたいと思う。

 何故、瀬名姫はこの小さな村の名前をもって呼ばれていたのか。簡単にいってしまうとこの瀬名が姫の出自と関係していたから、ということで、ここで話が終わってしまっても充分な気もするが、そこは一応歴史を扱う記事だということで、わざわざ時代をさらに遡って、簡単な話もややこしくしてみるのである。

 駿河今川氏の発祥については、ちょっと前に記事にしたが(こちら「『駿河今川氏十代』」)、その初代である範国は、駿河の守護となる前に、実は遠江の守護にまず任じられている。これは所謂「建武の新政」下における補任であったが、その後時代が南北朝時代に移った後にも、その任は続いたようである。そして建武五年(1338年)の「青野原の戦い」の武勲によって、駿河守護に任じられた。すなわちこれが駿河今川氏の初め、ということになるが、実はその後の観応三年(1352年)、範国は駿河守護の解任され、また遠江守護に戻っているのである。これは、どうやら足利直義の死去によって幕府体制が大きく変化したことに関係しているようだ。

 ただこの遠江守護の任については、範国の息子の範氏が就いたり、すぐまた範国が就いたり、さらにまた範氏が駿河の守護になったりと、いろいろややこしい動きがあって、なんだかわかりにくい。しかし今回は、この駿河今川氏が対象ではなく、追いたいのは瀬名氏のことなので、この辺りは端折ってしまう。とにかく、今川氏には駿河のみならず遠江にも、足がかり的なものがあったのだ、ということさえ確認できたらよし、ということにしてしまいましょう(笑)。

 最終的には駿河の守護として、駿河に暮らすこととなった、範国の嫡子であり駿河今川氏の第二代当主である範氏には、弟があった。それが今川貞世、良く知られた名でいうならば了俊である。遠江の半国守護に任じられたことから遠江の堀越(静岡県袋井市)に居を構え、所謂「遠江今川氏」の祖となった。彼の生涯も実に面白いのだが、これまた今回のテーマからは外れるので割愛。話は時代を下って遠江今川氏の第五代貞延の子、一秀にまでとぶ。

 この頃にはすでに、遠江今川氏は「堀越氏」と名乗っていたらしい。駿河今川氏第五代範忠が、永享十年(1438年)の「永享の乱」における武勲を将軍足利義教に認められ、範忠の系統のみが今川姓を名乗ることが出来る、という所謂「天下一名字」を許されたことから、遠江今川氏が今川を名乗ることができなくなって改姓した、というのが一般的にいわれていることだが、どうもこの「天下一名字」、史料的な確証はないようである、が、これまた余談なので今回はスルー(笑)。とにかく、時期的には一秀は「今川一秀」ではなく「堀越一秀」であった、というのが正しい、ということになるようだ。

 一秀の同時代、駿河今川氏の当主は第六代の義忠であった。しかしこの義忠、このブログでも過去に何度か取り上げている通り(こちら。「カブで史跡めぐり 37・塩の道 相良から掛川、その2 塩買坂」)、文明八年(1476年)の「塩買坂の戦い」において討ち死にしてしまう。これによって今川氏の内部で家督争いが生じ、そこで活躍するのが北条早雲であったのだが、一秀もまた、後の今川氏親となるべき、「塩買坂の戦い」当時にはまだ六歳であった龍王丸の後見人として、その力を発揮した。

 一秀は、幼い龍王丸の助力となるべく、駿府の今川館の近所に移り住んだ。それが、この瀬名であった。それを機に一秀は「堀越」から「瀬名」に改姓、ここに「瀬名氏」が誕生した、という次第である。そして瀬名氏はこの後、今川の家臣となった。

 そしてこの瀬名氏の三代目氏俊の弟が氏広であり、この氏広は同じ今川一族の関口氏の養子となって関口親永などと呼ばれたひとである。先日行った持舟城(用宗城)の城主をつとめたりなどし、その妻は今川義元の妹である。そしてこのふたりのあいだに生まれたのが、瀬名姫であった、という訳だ。

 ようやく瀬名姫に辿り着いたが、こうしてみると、瀬名姫がどうして、当時人質として駿河にいた家康の正室となったのか、ちょっとみえてくる気もする。さらにいうなら、瀬名姫の母親である、義元の妹、というひとが、遠江の井伊氏からの養子であるともいわれる。そうだとすると、瀬名姫は今年のNHK大河ドラマの主人公井伊直虎と血縁にあることになるけれども、これまた余談ですね(笑)。

 で、その瀬名氏が住んだという「瀬名館」があったとされる場所は、実は、今私が住んでいる安アパートから歩いて10分ぐらいのところにある。




sena3kai_convert_20170405181545.png

 地図でいうとこの辺り。




IMG_1464_convert_20170405181428.jpg

 現地の様子。この交差点の左角辺り。




IMG_1466_convert_20170405181452.jpg

 つまり、先ほどの交差点を左折した、この辺りに、瀬名氏の館はあったようであるが、ご覧のとおり、その面影は全くない。普通の住宅街である。

 ただ、この近辺には瀬名氏ゆかりの寺社等が現存しているようである。そのうちの幾つかを、次回、観にいきましょう。




関連記事

カブのこと 1・県道396号線 その1・富士、蒲原
カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分)その1・梶原一族最期
カブのこと 6・旧東海道、静岡市内
カブのこと 8・旧東海道 安倍川から大井川
カブのこと 10・旧東海道 大井川から掛川宿
カブのこと 15・旧東海道 富士川東岸、吉原宿
カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社
カブのこと 17・旧東海道、箱根
カブのこと 19・清水港湾地区
カブのこと 26・田沼街道
カブで史跡めぐり 1・高天神城
カブで史跡めぐり 4・旧東海道 掛川市、袋井市
カブで史跡めぐり 8・興国寺城 
カブで史跡めぐり 10・宇津ノ谷峠
カブで史跡めぐり 13・旧東海道 磐田市
カブで史跡めぐり 17・二俣城とその周辺
カブで史跡めぐり 22・天方城
カブで史跡めぐり 23・少将井神社、千手の前の像
カブで史跡めぐり 24・奥藁科 その1、栃沢、摺墨のこと
カブで史跡めぐり 27・旧東海道 浜松市から湖西市
カブで史跡めぐり 32・勝間田城
カブで史跡めぐり 33・花倉城 その1
カブで史跡めぐり 36・塩の道 相良から掛川
カブで史跡めぐり 40・諏訪原城址、再訪 その1
カブで史跡めぐり 42・丸子城
カブで史跡めぐり 43・蒲原城、再訪
カブで史跡めぐり 46・北街道
かぶで史跡めぐり 50・朝日山城
カブで史跡めぐり 52・持舟城
カブで史跡めぐり 53・手越河原古戦場
カブで史跡めぐり 54・横山城
カブで史跡めぐり 56・小島陣屋


にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する