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横山城 その1


 横山城 その1


 薩埵峠という、海岸線にまで迫った山塊がそのまま海にこぼれ落ちるような東海道の難所の、西側。古代の律令時代にはすでに駅が置かれ、徳川の五街道整備後には十七番目の宿場の置かれた興津は、この難所の存在ゆえに重要視された、ばかりではなかった。海に面した駿河と、山を越えた北方の内陸にある甲斐とをつなぐ「身延街道」が、この興津から発していたのである。




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 地図でみると、こんな感じ。地図の中央を南北に伸びる国道52号線が、かつての「身延街道」の後身、ということになる。

 この街道が、いつから「身延街道」と呼ばれるようになったのか。その名の由来は、現在の山梨県南巨摩郡にある「身延山久遠寺」への「巡礼の道」として利用されるようになったから、だろう。よって、早くても日蓮宗の宗祖日蓮が久遠寺を開山した弘安四年(1281年)より以前には遡らない、ということになる。しかし街道自体はそれ以前からあったはずだろう。そうでなければ久遠寺が身延に建てられることもなかったはずだから。

 そう、「巡礼の道」としての役割は、この街道のいわば「後付け設定」なのであって、もともとは、上記地図を一見すれば容易に想像できる通り、駿河湾沿岸部と内陸部とをつなぐ「通商の道」、すなわち「塩の道」としての役割こそがその第一義的な役割であったと考えるべきだろう。無論それは、「巡礼の道」としての役割が生まれた後にも変わることはなかったはずで、江尻津(現在の清水港)の発展もまた、その「通商の道」としての重要性を強めていったと思われる。

 だが乱世においては、更なる役割が加えられた。殊に駿河の奪取をねらう武田信玄にとって、この街道は実に重要な意味を持つこととなったといえるだろう。

 駿河と甲斐との国境を形作るのは山々の連なりである。それも並大抵の山ではない。大雑把にいうならば、その山々とは南アルプスと富士山である。この3000m級の山々を、武装した軍勢が越えることはまず不可能である。しかし、海を持たない甲斐の国の信玄、まずは日本海を目指すも、宿敵上杉謙信に阻まれてしまった信玄にとって、その南アルプスと富士山の間を抜けてまっすぐ駿河湾へと続く身延街道は、念願の港を得るための希望の道であった。

 桶狭間における今川義元の討ち死にの後、弱体化する今川氏に対して、敵対的な行動を取り始めた信玄。義元のあとを継いだ氏真は報復として「塩止め」を行う。こうしてそれまでの甲、相、駿の三国同盟が破綻、永禄十一年(1568年)末に、ついに信玄は大軍を率いて身延街道を南下、越境した。

 その後の武田の駿河侵攻については、先日、蒲原城址を観にいったときの記事に少し詳しく書いたので、そちらを読んで頂けると嬉しいが(こちら「カブで史跡めぐり 43・蒲原城、再訪」)、とにかく、電光石火の早業で氏真を駿府から追い出した信玄であったが、今川支援に動いた小田原からの北条の後詰めに背後を突かれる形となった。

 このときの、武田、北条両軍の位置関係を、地図で確認してみる。




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 東から進軍してきた北条軍は薩埵峠までを押さえた。こうなると、もし北条がさらに興津まで進出してきてしまったら、興津の西側の駿河中心部に展開した武田の軍は完全に退路(つまり身延街道)を失ってしまうことになる。いくら氏真を追い出したとはいえ、駿府以西には未だ今川の勢力が生きていたのだから。この駿河侵攻、信玄にとっても大きなギャンブルであった、ということがよくわかる。今川から駿府を奪うことには成功した。しかし、生きて甲斐に帰らなければ、そのギャンブルに勝利した、とはいえないだろう。

 そこで俄然重要度を増したのが、今回訪れた横山城であった。地図を観て頂ければ一目瞭然、東海道と身延街道との交差点から、北へわずか3km、いったところか。つまり、この城を守り通せるか否かによって、駿河にいる武田勢の命運が左右されることとなった訳である。




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 もう少し詳しい地図。国道52号線から、「清水冷飯」という会社を目印に裏路地にはいったところに、城跡はある。この日、2月末の土曜日。月曜の仕事の準備のためにちょっとだけ職場にいかなければならなかったのをいいことに、カメラ等々史跡めぐりグッズをこっそり持ち出し、そのちょっとした作業はさっさと終わらせて、パパは今日も仕事しているんだ大変だねと思っている女房子供はほったらかしたままにここへ来てしまった酷いボンクラ亭主。よって今回は「早朝」じゃありません。11時ぐらい、かな。




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 ここが、入り口になる。駐車場はないので、歩いてくるか、カブで来るのが正解(笑)




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 例によって、現地の全体図を。今回は見やすいでしょ?(笑)




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 上掲図の通り、城跡の前の細道が、旧身延街道、ということになる。




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 古い道標もある。その旧道を少し進んでみると、




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 こんな感じ。この旧街道も、是非カブで走ってみたいが、それはまたいつか。




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 こちらは、図でいうところの、山の麓の「居館跡」。以下、ちょっと長いが、現地の解説文の前半部分を転載する。

 
 この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(または近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」に興津左衛門の名があり、始めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河守護として入部以来はその被官となった。
 延文年間(一三五六〜六一)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしばこの城を訪れ。数首の歌が「宗長日記」に残されているが、大永五年(一五二五)の項には「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。そして永禄十一年(一五六八)十二月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城であった。






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 入り口の石碑。




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 石像も古そう。




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 梅も咲いていた。では、いよいよ城内へ、というところで、次回に続く。




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