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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『人は成熟するにつれて若くなる』


 友の死

人は成熟するにつれて若くなる人は成熟するにつれて若くなる
(1995/04)
ヘルマン ヘッセ

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 このヘッセの詩文集については、以前にもこのブログで取り上げたことがあるけれども、再び、このなかのある一文について、書くことにする。書かなければならないような、出来事が起こってしまったからだ。

 この本に収録されている、『秋の体験』という小品。これは、ヘッセが七十五歳のある秋の日に、古い友人を自宅に招いたときのことを書いたものである。その友人というのは、オットー・ハルトマンといって、その61年前に、ヘッセがマウルブロン神学校の生徒だったときの、同級生であった。

 久しぶりの再会を楽しむ、ふたりの旧友。しかしオットーが滞在できるのは、たった一晩であった。その別れの際の、印象的な一行。


 別れにあたって私たちは、ふたりが考えていたことはひとことも言うことなく、互いに微笑み合った。「たぶん、もう、これが最後だね」と。


 出会ったときには十四歳であったふたりも、はや老年を迎えて久しかった。ふたりは遠くはなれて暮らしていたから、もうこの先、どちらも相手を訪ねる長旅には体力的に耐えられないはずであり、たとえそれが可能だったとしても、次にその機会を捉えるまでには、どちらかがもうこの世からは去ってしまっているだろうことを、ふたりともが悟ったうえでの、別れであった。そして実際、オットーはそれから間もなく死んでしまったのである。

 上に掲げた一文は、この本を最初に読んだときから私に強い印象を残していたのだが、つい最近、正月休みの辺りからしきりに思い出され、私は気になって仕方がなかった。たぶん、友人たちからの年賀状などを眺めたせいだろう。私もまたいつか、経験するかもしれない友人たちとのこうした別れのことが、しきりに思われた。そこで私は、ある旧友を訪ねることを思いついた。

 それは、このブログの記事に時折顔を出す、友人Yであった。Yと私の出会いは、中学二年の教室で同級生になったときのことだったから、ちょうど、ヘッセとオットーの出会いと同じ年頃、ということになる。

 私たちにはこうした事柄、生死に関わることや、人生の根幹に関わることなどを語り合う習慣が、ごく若い頃からあったし、何より、私がヘッセを読み始めるきっかけをくれたのはYであったから、まさしく、このことについて話をするには絶好の相手であった。さらには、昨年夏に彼は自宅を改装、なんとバーカウンターを自室に作ってしまったのだった。半年ぶりに、ほとんどどこかのお店にしかみえないそのバーカウンターの客になりたいとも私は思った。

 ただ、彼の職業は小学校の先生であった。しかも6年生の学級担任であったから、三学期である今は彼にとってはとても忙しい時期なのではないかと想像し、私は彼に連絡をすることを躊躇していた。4月か5月になってからのほうがいいかな、などと思っていた。その矢先の1月13日、別の友人から突然の連絡があった。

 Yが、倒れたというものだった。しかも、集中治療室に入っている、とのことだった。あまりといえばあまりに衝撃的であった。ただただ、驚くばかりでなす術を知らなかった私に、今度はYの奥さんが電話をくださった。ICUに入っているということで、お見舞いにいくべきか否か迷っていた私であったが、奥さんの、是非に、という言葉に、すぐに病院へ向かった。15日の日曜日のことである。

 集中治療室に横たわるYは、もうすでに意識不明の状態で、薄く開いた視線の定まらない眼から時折こぼれる涙を、奥さんや妹さんに拭いてもらっていた。私はすべてを悟り、泣いた。Yの前で泣くのはそれが初めてのことだった。奥さんは、私とYとを残して退室してくれた。私に、貴重な最後の時間を割いてくれたのだ。おかげで私たちは古い友人同士に相応しい、静かに語り合う時間を得ることができた。

 彼が心臓に病気を抱えていることは知っていたが、まさか、これほどまでに早く、「その時」を迎えることになろうとは思いもしなかった。私はヘッセのことを話した。話しながら触れた彼の額は汗をかき、そして温かかった。15分か20分ぐらい、私はひとりで話していた。しかし、彼の元を去ることが、なかなかできなかった。「もう、これで最後だね」といって微笑むことが、なかなかできなかった。

 16日から17日にかけての夜中に、Yは永眠した。45歳だった。

 通夜の日、私は仕事を午前中で終えてしまい、帰宅した。そして、過去にYからもらった手紙を手文庫から出してきた。いったい何通の手紙が、我々の間でやり取りされたことだろうか。特徴的なYの字で綴られた、それら思い出の記録の数々だったが、そのときは読む気になれなかった。ただ一通づつ順番に、私は手紙を眺めていった。すると、おかしなものが出てきた。

 それは空の封筒であった。しかし切手も貼ってあるし、宛名書きもしてあった。宛先は、和歌山にあった大学生時代のYのアパート。差出人住所は、そのころ私が一人暮らしをしていた静岡市内の1Kアパート。つまり、我々が最も頻繁に手紙のやり取りをしていた頃のもの、二十年以上も前のものだった。

 なぜ私は、その封筒を使わなかったのだろう。そしてなぜ、捨てずに取っておいたのだろう。今となってはわからないが、そのときにそれをみつけたことが、偶然だとは思われなかった私は、通夜の始まるまでの時間を利用して、手紙を書くことにした。その封筒に入れられるべき手紙を。

 今自分が書いている手紙に、Yからの返事を期待できない、というのはおかしな感じがした。手紙に限らず、私はこれまで、Yという読み手を意識せずに何かを書くということはほとんどなかった。このブログの記事にしても、以前書きなぐった訳のわからない小説のような論考のような駄文にしても何にしても、私は自分の書いたものは大概Yに読ませてきたし、Yは必ず、読んでなんらかの形で返答をくれた。

 そう、私は多くのものを彼との関わりの内に為してきたし、彼を意識して為してきた。思えば、あまりにも彼に依存しすぎていたのではないかと怖れるほどだ。私はもの言わぬ存在となってしまった彼に宛てた手紙を書く、という自らの行為の「異質感」を、今度Yに会ったらどう伝えようか、などと考えている自分に気づき、そのひどい自家撞着に苦笑した。彼の死から受けたこの心の動揺でさえ、私は彼に伝え、彼と分かち合うことを求めてしまっているのだ。

 そのときばかりではなかった。Yは以前から奥さんに、自分の葬式のときにはラフマニノフを流してほしいと言っていたそうで、出棺のとき、その約束はきちんと果たされた。私はそのラフマニノフを聴くともなく聴きながら、自分のときはタンホイザーの序曲かな、と思った。そして、今度Yに会ったときには、それをどう思うのか聞いてみよう、死出の旅路にワグナー、それも「序曲」なんて洒落ているじゃないか、といったら、あいつは何と答えるかな、などと思っていた。そして我にかえり、愕然とした。そんな些細なことにさえ、もう、私は彼からの返答をもらえないのだ、と。

 なんという大きなものを、私は失ったのだろうか。彼の葬儀を終えて、ようやくこうして何かを書く気になった今でさえ、私は自身のこの見極め難き損失について、多分小さく見積もりすぎているのだろう。きっと、これから徐々に思い知らされるのだ。

 旧友よ、君とは是非、ヘッセとオットーのように、互いに老境に達してから、静かに、その最後の別れのときをふたりともが悟り、受け入れたうえで、微笑んで別れたかった。

 そうだ、老年に達してこそ、若き日の共通の思い出は、輝きをまして私たちを楽しませてくれただろうに。あの北海道を共にオートバイで旅した日々も、大学時代の君の下宿に居候した日々も、語り明かした数えきれぬ夜々も、仲違いも和解も、取り交わされた幾通もの手紙も、いまだ果たされていない幾つもの約束も皆、これから我々の間でその価値を高め、我々の後半生をその基調となって彩ってくれるはずだっただろうに。私はこの底知れぬ空虚の前になす術を知らない。そしてこれから私を襲うであろう、さらなる喪失感を予見し、怖れおののく。

 このヘッセの老年期の詩文集は、私にとってきっと、以前とはまるで違った意味をもつことだろう。もう一度、読んでみようと思う。十代の頃、Yが教えてくれたヘッセ。西洋文学の広大な世界に、私はそのヘッセから入り込んだのだった。文学というものが、私のつまらぬ半生に幾分なりとも彩りを添えてくれたのだとしたならば、よってそれはYのおかげだといえるのだろう。

 だから、今一度、ヘッセから初めてみることにする。私の後半生が、これからいったいどのくらい続くのかは知らないが、こうして今、私とYとの友情が、これまでとは違う形に変化した以上は、私としては、この新しい形を受け入れ、そして、この空虚、この喪失を、埋めていかなければならないからだ。

 サン=テグジュペリは、旧友との友情というものを、樫の大木に喩えた。それは欲しいからといってすぐに得られるものではなく、何かによって替えのきくものでもない。樫の苗木を植えて、すぐにその木陰に休みたいといってもそれは無理なことだ、と。

 ならばそれは同時にまた、一度育て上げられた樫の大樹は、簡単に失われるものではない、ともいえるのではないか。これまで、我々は互いが「在る」ということを前提にして生きてきた。その半生の上に成り立つのが今の私である。その事実はもうすでに変えようがない。そしてその今の私を前提としなければ、これからの私、というものも在りようがないのだ。そうだ、否応なく、私はYとの、30年にわたって育て上げられた友情の大樹の根元にしか生きられないのである。

 いま、日射しが傾き、その葉の茂りが落とす陰が動いた。ならば私は少しだけ移動して、再びその木陰に憩うことにしよう。

 そう考えると、案外、Yはそば近くにいるのかもしれない。



 (この記事を、いまは亡き親友Yにささげます。一杯のシャルトリューズとともに。)




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