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蒲原城、再訪 その2


 蒲原城、再訪 その2




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 駐車場からの道をしばらく進むと、




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 この十字路にぶつかる。まずは、ここを右へ。




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 このあたり、「腰曲輪」がいくつか連なっていた場所、ということになるが、




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 それらしき、人工的な地形。土塁のような盛り上がりに囲まれているが、近年に復元されたもののようにも見える。どうなんだろう。




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 そしてなんと、石垣まであった。これは新しいものにはみえない。戦国期の山城に石垣があった、となれば注目すべき事例、といえるが、どうやら、残念ながらその石積みの方法からして、近世後期に積まれたもののようである。




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 先へ進む。




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 ここを登ると、




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 現れるのは「空堀」。城の主要部を形作るふたつの大きな曲輪の間に築かれた、規模の大きな堀である。この堀の底をそのまま進むと、




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 丁字路にぶつかるので、ここを左へ。




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 何やら見えてくる。




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 ここが、「善福寺曲輪(北曲輪)」になる。

 


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 先ほどの逆茂木や、この物見櫓などが再現されているが、みなコンクリート製である。




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 ここに書かれてあった解説文によると、この曲輪において、武田と北条の間で激戦が繰り広げられたようである。

 永禄十一年(1568年)の末に駿河に侵攻、あっという間に駿府から今川氏真を追い出した武田信玄であったが、背後を北条氏政の後詰めに突かれ、翌十二年四月に甲斐に引き上げた。しかし六月には再び越境、今度は駿河東部に進軍し、今川配下にあった深沢城(御殿場市)、そして大宮城(富士宮市)を攻め、信玄はその攻略に成功する。だが信玄はそのまま留まろうとはせずにまた甲斐に引き上た。そして八月になると、今度はなんと武蔵を経由して小田原に軍を進めた。

 信玄は十月一日に小田原城の攻囲を開始、北条氏政は籠城して対抗する。だが北条の本拠地である小田原城であるから、いくら信玄であろうともそうそう簡単に落とせるものではないだろう。実際、四日には信玄は攻囲を解き、撤退を開始した。(ちなみに、その武田勢の撤退の際に起こったのが、「三増峠の戦い」であった。)

 結果的に無駄足に終わったような、この信玄の相模遠征であるが、以前紹介した『戦国静岡の城と武将と合戦と』のなかで著者の小和田哲男氏は、信玄の真のねらいは、駿河に展開した北条軍を、相模に引き帰させるための陽動作戦だと思われる、としている。

 事実、甲斐に戻った信玄は、ひと月とおかずに、またしても出陣、駿河へ軍を進めている。このときの信玄の目的こそは、蒲原城攻略であった。大規模な陽動作戦までした上での作戦行動であるあたり、やはり信玄はこの城を非常に重要視していた、ということだが、しかし重要視していたのは北条方だとて同じ事で、氏政はこのとき、北条早雲の子、幻庵の子である北条新三郎氏信を、蒲原城主として置いていた。激戦必至、今川なきあとの駿河支配の如何は、この城の命運に左右される、といってしまっても過言ではない状況であったのではなかろうか。

 信玄は、蒲原城攻めを勝頼に任せている。その勝頼の取った作戦がなかなか面白いので、以下、上記『戦国静岡の……』の記述を参考に、少し詳しく追ってみよう。

 勝頼ははじめ、力攻めで攻城を開始するが、十二月五日の夜、事前に城攻めをあきらめて駿府へ向かうようだ、という噂を流した上で、城下に放火、そして実際に兵を引くような動きをみせる。城を攻めていた敵が退却を開始したときには、城を守る側はこれを追撃するのが常套手段だったそうで、北条氏信は大手門を開いて出陣、追撃を開始した。

 しかしそれと同時に、城から火の手があがる。なんと勝頼は、城の北側の集落の土豪たちにあらかじめ根回しをしており、その土豪たちの手引きによって、城兵が出払って空になった城に搦手から攻め入り、火をつけたのである。驚いた北条方は動揺し、城に戻ろうと踵を返したのだが、そこに襲いかかったのが信玄の本隊であった。

 これで勝負は決した。城主氏信は自害し、蒲原城は落城、武田の支配するところとなった。その後はしばらくは武田氏による安定した統治が続いたようであるが、天正三年(1575年)の「長篠の戦い」を機に武田は徳川の反撃を受け、遠江、そして駿河における拠点を次々と失い、そして天正十年(1582年)になって、この蒲原城もついに落とされた、という次第である。しかし、「その1」に紹介した現地の解説文にある通り、落城が天正十年二月だとするならば、天目山において織田に敗北した勝頼が自刃、武田氏が滅亡するその直前まで、この城は徳川の攻撃を耐えていたことになる。


 

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 「善福寺曲輪」からの景色。眼下に蒲原の町並み、波静かな駿河湾と、遠方に伊豆半島。この日は本当に天気がよかった。そして、城跡などを歩いていると汗をかいてしまったぐらいに暖かかった。この城に入った今川の、あるいは北条、武田、そして徳川の将兵たちもまた、ここからこの景色を眺めたのであろうか。

 なんだかまた話が長くなってしまった。続きはまた次回に。


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