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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

蒲原城、再訪 その1


 蒲原城、再訪 その1


 正月二日。新年早々妻が風邪をひいて寝込んでしまった。すると実家の母親が、「大変だろうから子供たちを預かるよ」といってくれた。おかげさまでうるさい子供らもいない、悠々自適で優雅なお正月となった薄情な夫は、家にいてもつまらないので、病気の妻をほったらかして、お散歩史跡めぐりツーリングに出かけてしまうことにした。

とはいえ、あんまり長い時間留守にしていたら、さすがにわが心優しく忍耐強き妻も機嫌を損ね、それこそ悠々自適な一人の時間が正月を過ぎても延々と一生終わらないような事態にもなりかねないので、ごく近所で済まさねばならない。そこで、以前より気になっていた蒲原城趾に行くことにした。あそこなら、カブで行っても自宅から片道30分ぐらいなのである。

 スーパーカブ110を購入し、初めて早朝お散歩ツーリングに出掛けたときに、この蒲原城にも立ち寄ってブログ記事にしている。ただその時点では、私は国道1号線の旧道を走ることを目的としていたので、本当にちょっと寄ってみました、程度の扱いをしかしていなかった。しかしその後、方々の史跡を観てまわる過程において城跡というものにも興味を抱くに至り、この蒲原城にもまた来たいなあ、と思っていた、という事情は先日行った諏訪原城と同じである。……ということで、出発。時間は午前10時半ごろ。今回は「早朝お散歩」じゃないね。昼過ぎには帰ってこないとやばいかな(笑)

 駿河湾沿いを走る国道1号線を西から東へ、由比の辺りで分岐する県道396号線へ入り、ひたすら東へ。JR蒲原駅前を過ぎてさらに東、そしてJR新蒲原駅の手前にある、




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 この「善福寺入り口」の交差点を左折する。すると、

 


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 こんな感じ。ここを曲がって最初に交差する道が旧東海道であり、そこを左折すれば旧蒲原宿のあった辺りである。が、今回はさらに直進。




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 坂を登っていく。樹間にちらりとみえる高架道路は、東名高速道路。




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 さらに登り、




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 登りきって、住宅が見え始めた辺りに、




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 着きました。『蒲原城跡』である。




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 この道を歩いていく。手前の空き地は駐車場なので、車で来てもここに停められます。




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 こんな道。この途中にあった『蒲原城址鳥瞰図』を、一応。




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 見にくいですが。現在位置は、図の右下になる。つまり、「搦手」から入るような形になる。以下、その『鳥瞰図』とともに掲示されていた現地の解説文もついでに転載しておく。


 蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期の頃か。
 築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。
 文献上には特定の城主はなく、戦乱の折城代、城番が置かれた。永享十三年(一四四一)正月における牟礼但馬守範里、天文十三年(一五四四)から同十四年にかけての飯尾豊前守、永禄四年(一五六一)の佐竹又七郎、同雅楽助、永禄十二年(一五六九)一月今川氏の盟友関東北條方の北條新三郎守城の折本郭を大改築したが、同年十二月六日武田氏の攻撃にあい落城、蒲原城は武田方に移る。
 その後、天正十年(一五八二)二月徳川勢による落城まで武田氏の治下にあって当地の土豪、地侍による「蒲原衆」を編成しこの土地を治めたが、天正十八年(一五九〇)三月、小田原征伐の折徳川勢の着陣を最後に廃城となった。

 現在小字名に残る城関係の地名には的場、狼烟場、橋台、陣出ケ谷、根古屋、柵がある。



 文献上においては、永享六年(1434年)には蒲原城の名が確認できるようである。やはり駿河にある大概の城の例にもれず、今川時代に築城された、ということではあるが、この城の歴史において注目すべきはやはり、上記解説文における「同年(1569年)十二月六日武田氏の攻撃にあい落城、蒲原城は武田方に移る」の部分であろう。

 永禄三年(1560年)の「桶狭間の戦い」における今川義元の討ち死にを機に、それまでの武田、北条、今川の三氏による所謂「甲相駿三国同盟」が揺らぎ、武田信玄による駿河侵攻が始まったのが永禄十一年(1568年)の末であった。

 信玄の侵攻は素早かった。先日の丸子城のところでも書いた通り、躑躅ケ崎館を出陣したのが十二月六日、十二日には内房(現在の富士宮市内房)に布陣、十三日にはもう駿府の今川館を攻略してしまった。まさに電光石火、「はやきこと風のごとく」であるが、このハイペースでは、その進路にある蒲原城を攻略している暇は、さすがになかったようである。

 信玄には、急ぐ理由があったと考えるべきだろう。すなわち、北条の後詰めである。破綻した三国同盟であったが、北条は今川との同盟を維持することを選択していた。よって駿府へ向けて侵攻する武田軍の背後は、当然、相模から足柄峠を越えてやってくるであろう北条の援軍の前にさらされることになる。だから信玄としては、北条軍の到着前に、今川を無力化する必要があった訳だ。そうしないと今度は逆に、今川、北条の挟撃を受けて自分の身が危なくなってしまう。

 信玄は蒲原城を素通りした。それを今川氏真は薩埵峠で迎え撃った訳であるが、あっという間に突破された。信玄は、事前に今川方の諸将に対し、寝返り工作をしていたのである。信玄を迎え撃ち、難所である薩埵峠にこれを足止めして、北条の後詰めを待つはずであった一万五千の今川軍は、離反者続出で瞬く間に瓦解、信玄の作戦通りに事ははこんだ。

 一方相模の北条は、信玄の越境を知るとすぐに行動を開始、十二月十二日の時点ですでに、氏政の率いる軍勢が沼津に布陣していたようである。この素早さも見事であるが、信玄がいくらなんで早すぎた、ということだろう。十三日になって、氏政が薩埵峠に到達したときにはもう、駿府は落とされてしまっていた、という訳である。

 ただこの氏政の行動によって、薩埵峠以東は北条が抑え、その後の信玄の行動が制約されることになったのは確かなようである。そしてその過程で、蒲原城には北条の守備隊が入る事となった、ということだろう。信玄は翌年の永禄十二年(1569年)四月になると、江尻城(静岡市清水区)と久能山城(静岡市駿河区)に守備隊を残して甲斐に引き上げている。

 これでとりあえずは、蒲原城は事無きを得たのだった。だが、海岸線間近まで山々が迫り、残されたわずかな平地を縫うようにして、東西を結ぶ大動脈たる東海道が通っている蒲原の地に築かれたこの山城を、信玄がいつまでも放っておく訳はなかった。

 そして繰り広げられる、蒲原城をめぐる武田対北条の戦いについては、なんだかまたしても話が長くなってしまったので、城跡見学をしつつ、次回に追ってみましょう。



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