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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

丸子城


 丸子城


 12月中旬。朝明るくなってから、ウチの子供らが起きて活動を始めるまでのわずかな時間を利用する我が「早朝お散歩ツーリング」においては、日の出が一年の内で最も遅いこの時期は、もう本当にごく近所に行けるだけの短い時間しかとれないので、実質シーズンオフ、という具合になってしまう。寒いしね。

 しかし、年末の忙しい時期にせっかくもらえた土曜日の休日、これを利用しないのは実にもったいない、ということで、静岡市内に限ってどこかいい所はないかと探したところ、ありました、戦国期の山城、「丸子城」。旧東海道の丸子宿のそば近くにあるので、自宅から三十分とかからない。午前6時過ぎ、ようやく東の空の夜闇が薄らぎ始める頃に自宅を出発、愛車スーパーカブ110にうちまたがり、国道1号線を西へ走る。しっかし、さむいなああ。

JR静岡駅前を東から西へ通過した後、安倍川を渡った国道1号線は、やがてバイパスの高架道路と合流するが、その合流地点のすぐ手前に、「駿河匠宿入り口」という交差点がある。その交差点を山の方へ、右折するとすぐに、




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 こんな場所がある。写真奥の高架道路が国道1号線バイパス。それをくぐると、




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 こんな施設が。これが「静岡匠宿」である。ここは、主に静岡の伝統工芸の紹介をする施設である。これがみえたら、道路左側に注意しながらゆっくり進む。すると、




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 こんな狭い脇道がある。ここが、丸子城への入り口となる。一応、案内看板も出ているが、とにかくみつけにくい道なので注意。城跡自体には駐車場はないので、車で来た場合には、匠宿の駐車場にでもとめるしかなさそう(多分有料だと思います)。カブは、このすぐ脇に匠宿の駐輪場があったので、そこにとめちゃいました。時間は大体6時45分ぐらい。だいたい、この日の日の出時刻。

 


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 では、いざ出発。道しるべに、「城跡まで十五分」とあった。むむ、十五分とは、けっこうな距離だな。




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 足下を枯れ落ちた紅葉が彩る。これもまた綺麗なものだ。




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 その先にあらわれたのはこんな山道。両脇の木々は梅か。これは、梅の花の時期に来るべきだったかなと、ちょっと後悔。




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 道はやがて林の中へ。なかなかの坂道。すぐに両足に疲労を覚え、息もあがってしまう情けない私。この道を十五分歩くのはちょっと辛いぞ、などと、運動不足の中年男はさっそく弱気になる。




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 しかし、意外にその坂道は短かった。ここは、「外曲輪」なので、正確にはまだ「城内」とはいえないかもしれないけれど、歩き始めてからここまでならば、多分五分くらいだったと思う。十五分もかからなかった。ああ、よかった(笑)




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 現地にあった見取り図を幾つか。例によってどれも見にくいけれども、ご参考までに。三枚目に、何やら撮影者の影が邪魔してますが(笑)。では城跡の全体像を何となく把握したところで、いざ。




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 朝日の射し始めた道を進むと、




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 まず、「土橋」。そしてこの右側に、




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 この堀である。典型的な「三日月堀」。つまりこれは、所謂「武田流築城術」によるもの、と考えるのが自然であろう。その形が綺麗に残っていて、なかなか見応えがあった。

 「丸子城」は、三角山(みかどやま)山頂付近の尾根筋に築かれた山城で、標高は130mぐらい、広さは、面積で13ha、南北の全長は119m、東西では城の南側で141mあるというから、なかなかの規模である。築城時期ははっきりしないらしいが、南北朝時代、すなわち駿河今川氏が初めて駿河の守護となる時期である可能性が高いようである。このあたりを直接支配していたのは、今川家臣団の一員、斉藤氏であったそうだから、その斉藤氏の城であった、ということであろう。




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 「大手曲輪(東の曲輪)」。




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 そして、「北の曲輪』。これは、今川時代の本丸であるという。小和田哲男著、『駿河今川氏十代』によると、文明八年(1476年)の今川氏第六代当主である義忠の、塩買坂における討ち死にの後に起こった、今川氏の家督相続争いの最中、後に北条早雲の助力によって家督を継ぎ、第七代氏親を名乗ることになる龍王丸が、一時期この城に入ったことがあるようだ。駿河が今川氏の配下にあったその頃には、この二つの曲輪あたりが、この城の主郭部であった。

 「桶狭間の戦い」後の永禄十一年(1568年)、当主義元を失って弱体化する今川氏を、徳川・武田両氏が東西から挟撃する。武田信玄の軍勢が国境付近に布陣したのは十二月十二日。迎え撃つ今川氏真も無論、これに対して軍を動かし、薩埵峠で両軍は会戦するが、信玄は事前に今川方に寝返り工作をしていたらしく、今川軍はあっというまに敗走、翌十三日にはもう、駿府の今川館は焼け落ち、氏真は西へ落ちることとなった。

 その過程において、丸子城も武田の手に落ちた。そしてこの城は、先ほどの「三日月堀」をはじめとした、「武田流築城術」による大改修を受ける訳である。




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 この辺り、ご覧の通り見通しが悪く、ちょっとわかりにくいが、いかにも人工的な地形であることは一目瞭然。見取り図によれば、ここが「三の曲輪」、のはず。




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 「二の曲輪」。




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 そしてその先に「堀切」。これを越えると、




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 「枡形虎口」。「堀切」と連続して設置されたこの防御施設が、この先に城の重要な場所があることを窺わせる。




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 すなわち、「本曲輪(一の曲輪)」である。ここはかなりの広さがあった。




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 「本曲輪」東面に、「平虎口」。この先の斜面にも曲輪が段々に五つほど並んでいるはずなのだが、斜面がきつそうだったので見に行きませんでした(笑)




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 こちらは西面の「喰違い虎口」。




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 その先、ちょっとわかりにくかったが、多分、この辺りが「物見曲輪」。ここから、「本曲輪」の西側を、来た方向へ引き返すように進んでいく。




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 「本曲輪」から「北の曲輪」辺りまで、大規模な横堀が続く。これをみて思い出したのは、高天神城の西側の横堀であった。すなわち、これまた「武田」の築城らしさ、というものだろう。

 ご覧の通り、信玄(もしくは勝頼)は、この城を今川時代とは比較にならないほどの規模に拡張、強化している。東海道沿いに、武田氏が築城、もしくは改修した城というと、この丸子城の他には、先日行った大井川西岸の「諏訪原城」、あるいは藤枝の「田中城」が思い出される。武田氏が、この東海道という日本の大動脈たる街道を支配下におくことを、どれほど重要視していたのかがわかるというものである。

 その後、武田氏は徳川の攻勢により駿河から追われ、この城も徳川の配下におかれることになるのだが、その際、両軍の間に合戦が行われたという記録はないようである。これに限らず、ざっと調べた限りではあるが、この城の約150年の歴史において、大規模な合戦が行われたという記録に出会うことはなかった。つまり、この城がその「実力」を発揮する機会はなかった、ということかも知れないが、もしそうだったからといっても、「無駄に」なったということではないだろう。

 譬えは悪いが、これは現代における核兵器と同じで、「抑止力」としての力を発揮したならば、城としてはそれで充分なのである。地形的に、この辺りを東西へ移動しようというとき、特に大規模な軍事行動をしようというときには、ほとんど、この城のすぐ下を通る東海道を利用するほかはない訳で、そこにこの規模の山城が築かれてあったならば、その「抑止力」はおおいに発揮されていたことであろう。

 しかし時代は変わり、戦国期が終わって豊臣の時代となり、折角手に入れた駿河から、家康が関東へ転封となった頃には、その「抑止力」も必要なくなったようで、丸子城は廃城となった。では、私も帰るとしよう。

 


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 麓の稲荷神社の前で、お別れである。冬の日の出が遅い時期、こうして近所の城跡を廻るの悪くないようである。幸いなことに、静岡市には、山城跡が少なくないようなので。それでは、またの機会に。



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