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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『駿河今川氏十代』 その3


 今川氏についての広報活動 Ⅲ
 戦国大名今川氏の誕生






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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 この著書のなかで小和田氏は、守護大名と戦国大名とはどう違うのか、という問いには、今川義忠(第六代)と氏親(第七代)との違いをみることによって、その解答が「最も端的な形で用意される」ということを書いている。

 一般に、六代義忠までが守護大名、七代の氏親以降の四代が戦国大名、ということになっているらしい。この二者の違いとは、いったいどこにあるのだろうか。

 六代目義忠が、勝間田城攻略の帰路、塩買坂において、敵の残党の襲撃にあって討ち死にしてしまったことについては、勝間田城、塩買坂にそれぞれ行ったときの記事に書いたので、それを読んで頂ければと思うが(こちら。「カブで史跡めぐり 32・勝間田城」。「カブで史跡めぐり 37・塩の道 相良から掛川、その2 塩買坂」。)、この勝間田城の戦いはそもそも、応仁・文明の乱という全国的な大混乱に乗じて、斯波氏の配下にあった遠江を手中に収めようという義忠の軍事行動の一環であった。

 すなわち、この六代義忠から七代氏親への代替わりの時代背景としては、幕府の力が弱まり、戦国時代へと推移しようという正にその頃だった、という訳だ。別のいい方をするならば、「守護大名」から「戦国大名」へと変貌することができない大名は、生き残ることができなかった時代、ということである。

 具体的にみてみよう。応仁の乱の際、義忠は細川勝元の東軍についている。これは勝元を支持したというよりは、遠江の守護である斯波氏が西軍についたから、という理由による。つまり大義名分を得るため、といことであるが、しかし、他ならぬ大義名分が必要であった、ということに着目すべきではなかろうか。

 つまり、今川が駿河の「正当な」守護であるのと同じく、斯波もまた「正当な」遠江守護である。だから、その斯波を攻撃するには「正当な」理由が必要とされるのであり、そして、両者の権威の正当性を保証するのは、あくまでも室町幕府なのである。その幕府の力が揺らいだのが他ならぬこの応仁・文明の乱であったのだとしても、この時点では、すべてこれ室町幕府という枠組の中の話なのである。

 その枠組の中にあり、ある地方の支配者としての権威を、さらに上位の権威である幕府に保証してもらっている立場である以上、それはあくまでも「守護大名」であろう。そして守護とは、あくまでも幕府の一職制に過ぎない。だがその上位の権威である幕府の力が、この応仁・文明の乱を契機に弱体化してしまった。それは最早、ある一地方を支配するための「後ろ盾」にはならなくなってしまった。七代氏親が家督を継いだのは、まさにそんな時代であった、という訳だ(さらにいうならば、氏親の家督相続に尽力したのが、戦国大名の先駆けとされる北条早雲であることもまた、象徴的なことだといえるだろう)。

 小和田氏は、「義忠段階と氏親段階とでは、(一)検地の有無、(二)戦国家法の有無、この二つによって明確に分けられ」るとしている。つまりそれは、領国内の土地と農民とを直接に掌握、支配し、そして「自己の領国支配原理がすべてに優先する」、というものであるという。そこには最早、古代以来の「荘園」というものを尊重する態度も、幕府等中央政権への忠誠や恭順の姿勢もみられない。領国の、直接的で、自己完結的な支配があるのみである。

 かかる支配者をもって、小和田氏は「戦国大名」と呼んでいる訳である。そして今川氏においては、七代氏親から、そうした支配体制が確立された、ということだ。これは納得できる明解な説明だと思うし、戦国大名というものがかかる性質のものであると定義される以上、この戦国大名の登場をもって、戦国時代と呼ばれる時代の始まりである、と説明することも可能であると思われる。

 ただ無論、こうした性質のものであるからには、歴史年表上の穴埋め問題的に、ある年号をもって「はいここから戦国時代ですよ」と指し示すことも、はっきりと戦国大名と「それ以外」との間に線を引くことも困難だろう。こうした定義付けというものは、決して実際の出来事や事物に先行するものでも、優越するものでもないからである。ある戦国大名は検地なんてものは碌にせずに済ませてしまったかもしれないし、またある者は成文法など作らずに、乱世の実力者らしく「俺が法律だ」で通してしまっただろう。上記の定義は、あくまでも様々な戦国大名の在り方から抽象化された概念に過ぎない。

 しかし幸いなことに、我々が対象としている今川氏親の場合は、その典型、ということができそうである。だからこそ、小和田氏は「最も端的な形で」という書き方をしているのだろう。

 義忠の遠州進出は、前述のように塩買坂で頓挫してしまった形であったが、氏親がそれを引き継いだ。この氏親の遠江侵攻にも、やはり北条早雲の多大なる助力があったようであるが、それはおくとして、永正十三年(1516年)、義忠の討ち死にから実に37年後に、氏親はようやく遠江を掌握した。

 その遠江において行われた検地の記録が残っている。残された記録は五例、永正十五年(1518年)から大永四年(1524年)にかけてのものである。他の土地については、検地が行われなかったのか、それとも記録が残っていないだけなのか、不明なようであるが、少なくとも、遠江における検地は、新たに領有した土地の安定支配のために行われたものであろうことは、容易に推定できるものだと小和田氏はしている。すなわち、遠江支配を、守護として幕府の権威のもとに行うのではなく、土地と農民とを直接的に掌握した上で、自らの武力を背景に行う、戦国大名としての「最も端的な形」での支配のための、具体的政策、ということである。

 そしてもうひとつ、戦国家法、すなわち分国法である。大永六年(1526年)六月の死を目の前にして、五十六歳の氏親は、今川氏の分国法である「今川仮名目録」を制定する。この時点で、跡継ぎである氏輝はまだ十四歳であった。つまり、氏親はどうやら、まだ年少である息子への家督の継承が滞りなく行われるために、領国支配のための規範を残しておこうという意図から、この家法を成文化した、ということのようだ。

 つまり必要がそうさせたという訳で、前述の通り、「戦国武将はかくあるべし」という定義が先にあってそれに従った訳ではないということだが、結果的に今川氏が、ここにおいて、ある「典型的」な戦国大名となった、ということはできるだろう。ただ、ここでいう「典型的」であることとは、「平均的」であることを意味するのではなく、何というか、「完成度の高さ」とでもいったものを謂うのだと思う。

 それはつまり、支配体制の論理化、とでもいうべきであろうか。あるいは、マニュアル化、データベース化の作業、というべきか。激動の時代、一歩間違えれば領国を失う、どころか、一家皆殺しの目にもあいかねないような危うい時代に、支配体制を安定させ、家の存続を盤石のものとするために、めまぐるしく変わる環境に行き当たりばったりに対応するのではなく、それらに備え、それらをできうる限りこちらの都合に従わせるための努力である。

 前回にみた「文化的」家風とともに、こうした今川氏の知性、論理性というものこそ、私は他ならぬ今川氏の特徴であり、強みであったと思う(まあ、今川氏の特徴を相対的に論ずることができるほど、私は他の大名について知っているわけでもないのだけれど)。そしてまたそれが、ともすれば貴族気取りの「文弱」体質と誤解されがちな今川氏像、というものをも形作っているのではないだろうか。

 こうして、氏親の代に、後期の今川氏の最盛期を迎えるための準備は一通り整えられた訳だ。そうした意味で、氏親の存在は大きかったといえよう。そして今川氏はその後、第八代氏輝を経て、第九代義元を当主にいただくこととなる訳である。

 ということで、たった一冊の本から得たにわか知識で、今川氏の広報活動を行うという無謀な試みも、そろそろ終わりにしよう。これで、皆さんの今川氏のマイナスイメージが改善できたならいいけれど……無理でしょうね(笑) さんざん知ったようなことを書いておいて何だが、やはりこういうことは、他の、比較対象となるべき大名たちのことや、彼らが活動した時代の全体の動きなどもよく知らなければ、なかなか難しいな、と思い知った。勉強いたします。

 ただ、この先のスーパーカブでの史跡巡りの際に、手がかりというか、道しるべとなりそうな知識は、わずかなりとも得られた気はした。今後もまた、ローカルな史跡めぐりなどしていくつもりでいるが、その記事が、これによって少しでも面白いものにできればなあ、などと思っている。それでは、また。


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