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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『駿河今川氏十代』 その2


 今川氏についての広報活動 Ⅱ
 マイナスイメージ払拭のために





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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 この本で仕入れたばかりの知識によって、今川氏というものを皆さんにご紹介する、となると、なすべきはやはり、今川氏について一般に抱かれている(と思われる)なにやらおかしなイメージを払拭する、という作業になるのではなかろうか。だとするならば、まずはその「おかしなイメージ」というものをはっきりさせておく必要はあるだろう。

 とにかく、「桶狭間の戦い」が、今川氏の戦国大名としての評価を、著しく下げていることは事実だろう。二万五千以上といわれる軍勢をそろえておきながら、数千にすぎない織田信長の奇襲にあい、よりによって総大将の義元を討ち取られて敗走させられるというのは、いかなる理由があれ失態という他はない。

 また、その勝者が信長であったというのも、相対的に義元の評価が貶められる一因となっているだろう。これは『平家物語』における源氏と平家の構図と同じことで、このカリスマ的魅力をもった、生まれついての主人公である信長という戦国武将が輝けば輝くほどに、義元におちるその陰は濃く深くなるのだ。おかげで、あの英雄の物語が勇ましくドラマチックに脚色されるたびに、ますます、義元、そして今川の名前はマイナスイメージに沈んでいくのである。

 さらに、その桶狭間の後がまたいけない。義元のあとを継いだ氏真のことである。彼については、最近の史跡めぐりの記事においていくつか、そのエピソードを書いているので詳しくはそちらを読んで頂ければと思うが、とにかく、せっかく義元が広げた支配地域をあっという間に失ったばかりではなく、その後、落ちのびて嫁の実家の北条氏に保護されるも二年で追い出され、よりによって今川氏の息の根を止めた敵である家康のもとに転がり込み、さらには父を殺した信長の前で蹴鞠なんか演じてみせた上に、牧野城のお飾り城主ですら勤まらずにクビにされた、とあっては、これはもう「文弱」の誹りはまぬかれようもなさそうである。

 そう、この「文弱」というのが、どうも今川氏のイメージにこびりついてしまっているのではなかろうか。




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 静岡市、旧丸子宿の西にある、吐月峰柴屋寺。元は、連歌師宗長が草庵を結んだ場所であり、それが後に寺に改められたもの、だという。宗長は今川氏、特に六代目の今川義忠あたりと関係が深かった。そのためか、このお寺では今も今川氏にゆかりの品々をみることができる。

 古今東西、詩人や楽人といった芸術家のパトロンとなる権力者は珍しくはないが、今川氏の場合は確かに、それにとどまらない「文化的」な家風がみられるといえるかも知れない。この『駿河今川氏十代』においては、特に第四代の範政についてとりあげているので、みてみよう。


 一目見しかたちの小野に刈る草の
 束の間もなど忘れざるらむ



 これは、『新続古今和歌集』に選ばれた範政の「恋の歌」である。彼の歌は他にも一首選ばれており、支配階級、上層階級にある者の単なる「教養」としてのたしなみ以上の、「歌人」としての一面を彼がもっていたことが、ここから知ることができる。彼には、『万葉集』の秘事口伝も伝えられていたという。これは、鎌倉時代初期の学問僧である権律仙覚の万葉集研究の秘伝である。

 また範政は、『源氏物語』などの書写、校合や、古典研究などの業績も残している。これはもう、知識人、文化人と呼んで差し支えのないレベルである。こうした、彼に代表される今川氏の文化的家風というものが醸成された要因としては、やはり足利将軍家に血統的に近いことから、その繋がりで京の公家の文化人たちとの交流があったことは大きいだろう。

 そんな家風が最終的に、氏真の例の蹴鞠披露に至ったのだ、といわれてしまうと返す言葉もないのだが、しかし範政にしても、ただの文化人であった訳では決してなかった。

 駿河は、いうまでもなく東の国境を関東諸国と接している訳だが、その関東におかれた鎌倉公方が、早くから幕府にとって憂慮すべき存在となっていた。要するに鎌倉公方が力をつけすぎた上に、常に幕府に反抗的な姿勢を取るようになってしまっていたのである。

 こうした状況下にあって、今川氏が、他のどこかの国ではなく、この駿河の守護職に任じられたことには理由があったのだ。将軍家は、自らの血統に近く、信頼できる今川氏を、関東に境を接した駿河に、鎌倉公方の監視役としておいていたのである。そしてその役割を、実際に武力の行使というかたちで果たしたのが範政であった。

 応永二十三年(1416年)に起こった「上杉禅秀の乱」は、鎌倉公方の補佐役である関東管領職にあった上杉禅秀(憲氏)が、当時の鎌倉公方足利持氏との意見対立を理由に、管領職を辞任したことを端緒として起こった戦乱であった。詳細は割愛するが、禅秀は十万を超える勢力で鎌倉を襲い、持氏はこらえきれず鎌倉を脱出、箱根を経て、駿河の瀬名(今の静岡市葵区にある地名)の寺にまで逃げてくることとなった。

 範政はその持氏を駿河府中の今川館に保護した上で、家臣の一人を京にのぼらせて将軍義持の指示を仰いだ。義持としては、鎌倉公方持氏の力がこうして削がれることは願ってもないことだっただろうけれど、しかしだからといって禅秀がこんな形で力をつけることを黙認できる訳でもなかった。幕府にとって必要なのは、幕府のコントロール下にある関東の秩序、なのである。

 義持は範政に禅秀討伐を命じ、範政はこの関東の混乱の鎮圧に乗り出す。その詳細もまた割愛するけれども、範政は鎌倉にまで禅秀を追い込み、禅秀の自害によってこの戦乱を収束させるのに大いに尽力したのである。

 範政はこうした、単なる一国の守護であることを超えた務めを果たしながら、その上で、上記のごとき「文化人」でもあったのである。これこそが今川氏の「家風」というものの姿であって、決して「文弱」なんてものではなかったのである……少なくとも氏真以外は(笑)

 そしてこうしたバランス感覚があったればこそ、今川氏は守護大名から、有力な戦国大名へと変貌していくこともできたといえるのではないだろうか。

 では次回、戦国大名今川氏誕生のあたりを、読んでみることにしましょう。

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