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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『駿河今川氏十代』 その1


 今川氏についての広報活動 Ⅰ
 その始まり





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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 我が郷土静岡市で、地元ゆかりの戦国大名はというと、なぜか、徳川家康が挙げられることが多い。家康が幼少期を駿府で過ごしたことは確かであるし、その最晩年もまた駿府で過ごした上、駿府でその生涯を閉じ、日光の前にまず駿河の久能山に埋葬された、というのも確かである。が、家康はもともと三河の戦国大名だというべき人物であろう。

 その晩年を駿河で過ごしたのは、天下人として、どこに住もうと自由な立場にあって、たまたま駿河を選んだ、というだけであり、よってその時期の家康はいわば「日本の」家康なのであって、「駿河の」家康とはいうべきではないだろう。そして年少期についていうならば、これは「人質」として三河から駿河につれてこられていただけなのだから、やはり「駿河の」ではなく「三河の」、である。

 となると、駿河ゆかりの戦国大名は、という問いには、やはり今川氏、と答えるべきなのである。これはもう、絶対にそうなのである。いくら今川氏のイメージが少々悪いからといっても、その事実は揺るがないのである。そして、いくら周囲に信長だの信玄だのといった強くて男らしくてカッコいい武将がたくさんいるからといっても、静岡市民ならば、地元の戦国武将である今川義元を支持し、愛するべきなのである。これはもう、そういうことになっているのである。

 しかしいくら支持し愛そうとしても、今川氏のことをよく知らない、とあってはなかなか難しいものがある。ということで、この本を買ってきて勉強することにしたのである。

 ただ、こういう種類の本について、読後感想を書く、というのはちょっと難しいので、今回は、この本から得たばかりのにわか知識から、我が郷土の誇る戦国大名今川氏について、ご紹介、という感じにしたいと思う。

 「御所(足利家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」。

 これは室町幕府の将軍継承権について俗にいわれた言葉である。場合によっては将軍の継承権が発生する可能性があるといわれるほどに、今川氏は足利将軍家に近い血統にあった。

 ただ、その家格の高さのみによって、今川氏が大きくなっていった訳では無論なかった。吉良は足利の分家であり、今川はその吉良の分家であった訳だが、こうした分家ならば他にいくらでもあったはずである。その中にあって、例えば数に限りのある守護職の座を得るためには、なんらかの手段によって他を出し抜く必要があるだろう。

 今川氏発祥の地は、現在の愛知県西尾市今川町である。吉良家の分家がここに居を構え、その地名から今川を名乗った、という訳である。この今川氏が、最初に歴史の表舞台にその名を現したのは、「中先代の乱」における武勲であった。

 「中先代の乱」は、建武二年(1335年)の、後醍醐天皇の所謂「建武の新政」に対する北条時行の反乱である。足利尊氏・直義の軍勢が、鎌倉を目指して逃げようとする時行軍を追う過程において、東海道の難所のひとつで歌枕としても有名な小夜の中山峠で合戦となった。この戦いに、尊氏軍の大将として参加していたのが、今川氏の二代目基氏の長男、頼国であった。

 頼国は、敵将名越邦時を討ち取る等、奮戦した。このときに、頼国が邦時の武勇をたたえ、その鎧を埋めて弔った、とされる場所が、今も小夜の中山にある。当ブログでも以前スーパーカブで訪れた際に取り上げた、「鎧塚」がそれである。




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 これがその「鎧塚」。(記事はこちらです。お暇でしたらどうぞ。「カブのこと 12・旧東海道 大井川から掛川宿、その2 小夜の中山峠」)

 ただその頼国もまた、その後の相模川での戦いで二十本もの矢を受けて討ち死にしている。今川氏の当主基氏としては、長男を失った訳であるからこれは大きな痛手であっただろうけれど、結果的にはこの争乱で、基氏は五人の息子の内の三人までもを失った。しかしこの犠牲は、尊氏の印象に残らずにはいなかったことだろう。そして生き残った二人の兄弟の内、五男の範国が家督を継いだ。

 「中先代の乱」の後、こんどは後醍醐天皇と足利尊氏・直義とが対立した。ここから南北朝時代という混乱が始まる訳である。余談であるが、この対立の最中である建武二年(1335年)十二月五日、直義の軍と、後醍醐天皇方の新田義貞とが、現在の静岡市駿河区にある手越河原で戦った際に、新田軍が陣を張った場所に、私は過去に行ったことがあった。




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 ここ。以前住んでいたアパートの近所の、お散歩コースにあったのだ。しかもそれを、当ブログ内で取り上げたりもしている。で、記事はこれ。「日々の出来事 21・この街の思い出」。しかし当時は何のことやら解らなかったし、あんまり興味もなさそうだったことが、記事の文面からわかりますね(笑) さらにいうならば、以前ご紹介した「千手の前の像」がある「少将井神社」も、この近所になります。こちら。「カブで史跡めぐり 23・少将井神社、千手の前の像」。

 閑話休題。この今川範国が、所謂「駿河今川氏」の初代、とされる。つまりこの範国が、初めて駿河の守護に任じられた、ということだが、それは「青野原の戦い」の直後であるという。

 「青野原の戦い」は、建武四年(1337年)八月に、後醍醐天皇の要請を受けた畠山顕家が、京を目指して軍を動かしたのを、尊氏が美濃の青野原に迎え撃ったものだった。戦いは一応、顕家方の勝利、ではあったが、尊氏としては顕家に京に入られることを阻止できたということで、満足できる結果といえた。

 そしてこの戦いにおいて、範国はその勲功を尊氏に認められた。そして反対に、陸奥から京を目指していた顕家の侵攻を食い止めることができなかったのが、当時の駿河守護であった石塔義房であった。義房は任を解かれ、かわりに功績のあった範国が駿河守護の座についたという次第であった。

 駿河の国府所在地、といえば府中、すなわち後年の駿府、現在の静岡市、ということになるが、範国はいきなり府中にその本拠をおいた訳ではなかったようだ。通説では、まず現在の島田市にあった大津城に入り、そしてその後に現在の藤枝市にある葉梨郷花倉を本拠として、館と、詰めの城である花倉城を築き、その後は三代泰範の時代まではこの花倉にいた、というものらしい。

 ただ、以前花倉城址に行ったときの記事にも書いたが、範国の時代にはすでに府中に居を移していたと考えられるような文献もあるらしい。このあたりははっきりしないが、勿論、花倉に残された今川氏ゆかりの史跡等をみる限り、今川氏にとっては花倉が特別な場所であることには間違いなさそうである。(花倉城については、こちらを。「カブで史跡めぐり 33・花倉城」)

 こんな次第で、駿河今川氏は誕生した。そして初代範国から氏真まで、十代に渡って駿河を支配し続けるのであるが、なんだか寄り道ばかりしていたら長くなってしまった。続きは、次回。

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