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諏訪原城址、再訪  その2


 諏訪原城址、再訪  その2




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 諏訪原城の中枢、「本曲輪」跡。

 天正三年(1575年)五月、「長篠の戦い」に大敗した武田勝頼は、遠江の地においても防戦一方となる。諏訪原城を築城した馬場信房はこの「長篠の戦い」で討ち死にしているが、勝頼は他にも多くの重臣を失ない、それはこれ以降の遠江、駿河での勝頼の苦戦の一因となった。

 一方、かつて一言坂から二俣城、そして三方原と、武田には苦渋辛酸大いになめさせられた徳川家康は、ここぞとばかりに猛反撃に転じる。まずは浜松城への直接的な脅威といえる二俣城を攻囲、この名城はすぐには落とせなかったが、武田の遠州における拠点といえる城を次々と攻略、七月二十日にはついに諏訪原城への攻撃を開始した。

 諏訪原城の守備隊は、約一ヶ月の間、城を守った。しかし八月二十四日、これ以上の防戦は継続不可能と判断した諏訪原城の武将たちは、夜の間に城を脱出、小山城(榛原郡吉田町)に逃れた。これによって諏訪原城は徳川の支配するところとなる。家康は武田の軍神である「諏訪」の名を嫌って、「牧野城」と改名したうえで城を改修する。




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 「搦手口」。つまり城の裏口である。武田の守備隊は、あるいはここから脱出したかもしれないと、ちょっと降りてみようと思ったのだが、




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 こんな感じでかなり険しそうだったのですぐ引き返してしまいました(笑)




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 「本曲輪」からの眺め。城の裏側、つまり東側ということになる。こちらは断崖絶壁で、攻め登ることはできないだろう。




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 「本曲輪虎口」。「二の曲輪」から「本曲輪」への通路としては、こちらが正面口なのだろう。では、大体一通りまわったようなので、こちらから駐車場に帰るとしよう。

 ところで、「牧野城」となった後のこの城の城主として、意外な人物が登場する。なんと、掛川城において徳川に敗北、全てを失って小田原にその身を寄せていた、義元の子、今川氏真である。では、永禄十二年(1569年)五月の掛川城落城後の氏真の足跡を、またしても小和田哲男氏の『駿河今川氏十代』を参考に追ってみることにしよう。

 氏真は小田原に身を寄せた。氏真の妻が、北条氏政の妹だったことから、北条氏を頼ったのである。しかし氏政の父、すなわち氏真にとっては義父にあたる北条氏康が元亀二年(1571年)十月に死去すると、また事情が変わってしまった。

 親今川的だった氏康に対し、その跡を継いだ氏政は、信玄の娘を妻に迎えていたこともあり、親武田的な立場にあったのである。氏真は小田原にいられなくなってしまった。そこで次に氏真が頼ったのは、なんと家康であった。

 掛川城講和開城の条件に、「駿河から武田を追った後には、駿河を氏真に与える」というものがあったらしく、氏真はそれを頼った、ということのようだ。無論そんなものは戦時の口約束にすぎず、家康としては反古にすることぐらいは何でもなかっただろうが、家康は、なんとか武田支配下にある駿河を通り抜けてはるばる浜松までやってきた哀れな氏真を迎え入れた。

 かつて人質時代に世話になった義元の子であり、腐っても前駿河国守である氏真に、武田から駿河を取り戻すための何らかの政治的価値が生じることを、家康は期待したのでは、と小和田氏は書いている。いずれにせよ、かつて掛川城攻防戦で長期にわたって粘り強く耐え、講和開城という形に持ち込んだ氏真の努力が、ここにきて自らを救った、とはいえそうである。

 天正三年(1575年)三月、多分織田信長の招きによって、氏真は上洛、名所見物などをした後に信長に謁見している。信長の前で蹴鞠を披露し、これまた今川の「貴族気取り」を笑いものにするネタにされているが、かつて桶狭間で父を殺した信長の前で、蹴鞠など演じてみせなければならなかった氏真の心中は、察するにあまりある、というものである。

 そしてその年の八月に、諏訪原城は落ち、家康のものとなる訳だが、ここで家康は、諏訪原城改め牧野城の城主に氏真を据えるのである。実は信長と家康は、氏真をもう一度武将として復活させようとしていたらしい。少なくとも信長は、上杉謙信宛の手紙に、氏真に駿河を与えるつもりであることを書いているそうだ。確かに、長く駿河の守護であった今川の名は、駿河の安定した支配のために大いに力を発揮することを期待できそうである。実際、武田の支配下にある駿河では、かつての今川の家臣たちによる一揆のようなものがたびたび起こっていたらしい。

 ただ、城主とは名ばかりで、実際に采配を振るったのは補佐役の松平家忠らであったようだ。まあ、少し前まで敵将であった氏真が、いきなり徳川の家臣団を操る、というのは無理な話だ。家康としても、駿河から武田を駆逐し終える頃までに、武将としての体裁が整えば、ぐらいに思っていたのではなかろうか。

 しかし二年後の天正五年、氏真は牧野城城主をクビになった。文化的な今川の家風のなかで育ち、「文弱」と評されることの多い氏真、やはり戦国の世には合わなかったのだろうか。氏真はこれで、戦国武将として返り咲く最後のチャンスを失ったのだった。

 単に室町将軍家に血統的に近いというだけで、今川氏は大きくなったのではなかった。南北朝時代の争乱から、応仁の乱、そして戦国時代に入ってからも、武勇によって名を成し、地位を得、その支配地を広げてきたのが今川氏の歴史であった。その今川氏が、最終的にこんな形でその力を失い、歴史の表舞台から姿を消してしまったのは何とも残念な話ではあるが、これも乱世のならい、仕方のないことである。

牧野城は、高天神城攻略等の拠点として機能したが、天正九年(1581年)にはその高天神城も落城、その後は遠江、そして駿河から武田氏の勢力は追われ、翌十年には、武田氏は滅亡した。この、長年徳川と武田が激戦を繰り広げた、遠州・駿河の国境周辺からも戦乱は去り、この偉容を誇る武田流築城術による名城も、天正十八年頃には廃城になったという。

 では私もそろそろ帰路につくとしよう。これから寒くなるし、日の出も遅くなるしで、また早朝お散歩ツーリングにはつらい季節になるけれど、機会を探してまたどこかへ行こうと思っております。それでは、また。


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