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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『源頼朝』


 流人、頼朝



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 岩波新書 『源頼朝』 永原慶二著
 ISBN4-00-413098-0



 何年か前に、教科書の鎌倉幕府の成立が「1192年」から「1185年」に変わっている、なんてことが話題になった。私は勿論「いい国つくろう」で憶えた世代であるが、この変化について、特に何も考えなかった。何か新しい文献でも発見されたのかな、ぐらいにしか思わなかった。

 しかし昨年からの我がニワカ歴史熱が嵩じるにつれ、いよいよ、気にせずにはいられなくなってきた。ちょっと前に清盛の本なんか読んだのでなおさらである。しかしまあ、最新の教科書が1185年(「いい箱」と憶えるらしい)というのだから素直にそれに従えば良いのだけれど、それができないのが我々大人である。ガンコで融通がきかないのである。「いやいや、そう簡単に変えられてたまるもんか、「いい国」説にだってそれなりの論拠があったはずなんだから」と、いろいろ調べ始めるのである。

 で、調べた結果どうだったのかというと(調べたといっても幾つかのそれらしいwebページをまわってきただけだが)、これは結局、鎌倉幕府、あるいは幕府政治というものをどう定義するのか、という問題に行き着くようである。簡単にいうと、あくまでも頼朝が征夷大将軍という地位についたときをもって幕府の成立とみなすならば従来の「いい国」説になるし、源氏が壇ノ浦に平家を滅ぼし、同年に鎌倉幕府のシステムの特徴であるところの守護、地頭を各地においたときをもって、実質的に「武家政権」なるのもが成立していたのだ、とみるならば「いい箱」説になる、ということである。

 (なかには、「教育界にはびこる左派勢力が、征夷大将軍任命という、「王朝」つまり天皇家の影響を歴史から排斥し、あくまでも古代からの律令制国家を廃して新興勢力たる武士が台頭したという「階級闘争」の枠組みに押し込めたいがために、「いい国」から「いい箱」に変更したのだ」、なんていう穿った意見もみられた。所謂「マルクス史観」からの脱却というものは、ひとつの先入観から脱するという意味において私も重要なことだとは思うので、これはこれで全然興味のない話ではないのだけれど、これをインターネット上という公共の場で深く追求し始めると、いろいろ大変なことになりそうなので今回はやめておきます(笑))

 そして、「いい国」と「いい箱」以外にも学説は幾つかあるようである。これは、以前興国寺城に行ったときの記事に少し書いた、「いつからいつまでが戦国時代か」という問題と同じである。鎌倉幕府、というも、戦国時代、というも、結局、後世の歴史家が歴史上のある出来事に名付けたものなのであり、頼朝が自分の政権を鎌倉幕府と呼んだ訳でも、北条早雲が自分の旗揚げに際して「今から戦国時代のはじまりじゃ」とか何とか言ったという訳でもないのだ。だから、無責任なことをいってしまうならばここでも正解というものはないのである。幕府政治とは何なのか、自分で調べて頼朝が構築した「武家政権」なるものを知った上で、同じく幕府と呼ばれる室町・江戸幕府と比較、さらには幕府と「呼ばれない」政権との比較もし、そして初めて、自分なりの「幕府観」、ひいては「史観」というものが得られるのだろう。

 という訳で、その第一歩として、こんな本を読んでみた、という訳である。初版が1958年の本であるから、もしかしたら、書かれていることは現在の視点からは「古い」とされるのかも知れない。ただ古い故に、何というか「目新しさ」を狙ってセンセーショナルな「トンでも学説」をでっち上げたような本はなく、定説といってはおかしいが、従来的、一般的な基礎知識を得られることが期待できそうな本だと思い、これを選んでみた。そしてその期待は、多分裏切られなかったのだと信じる。無論、他と比較した訳ではないので軽々なことはいえないけれど。

 ただ、「鎌倉幕府」というものについて知りたくて読み始めたのに、惹かれたのは前半の、「流人時代」の頼朝の姿であったというのは我が事ながら誤算であった。これはもういうまでもなく、彼が島流しになったのが伊豆という、郷土史に惹かれて史跡めぐりなど始めた私には見逃せない場所であったことが原因ではある。しかしよく考えてみると、この頼朝の「流人時代」について、ほとんど何も知らなかった、というのも大きな理由であった。

 これは勿論私の無学のせいではあるが、言い訳させて頂くなら、この時期の頼朝について、現代に伝え知らせる文献がほとんどないのだ。よって、私などが知らないのも道理、というものなのである。

 記録がない、というのは残念な事ではある。ただ、この他ならぬ記録がない、という事自体が意味するところが、重要だと思われる。すなわち、流人時代の頼朝は、その様子を記録するに値しない人物であった、ということである。

 平治元(1159)年の「平治の乱」が終わった段階で、頼朝は14歳であった。彼は長男ではなかったけれども、その時点ですでに義朝の後を継ぐのは彼だと目されていたようなので、当然、勝者である平清盛は頼朝を殺していても全くおかしくはなかったが、清盛の継母池の禅尼等の懇願によって助命された。これを清盛の誤算、甘さだとするのは簡単だけれど、見方によっては、殺す価値もなかった、と見る事もできる訳だ。

 事実、彼は文字通り「身ひとつ」で伊豆は蛭ケ小島(現在の伊豆の国市の地名)に流された。幽閉というほど酷い拘束状態ではなかったにせよ、監視の眼はあった。というより、平家の世であるから周囲の有力者は皆監視者だといえた。武力も財力もないまま、彼は都から遠く離れた僻地にぽつねんとしてあった。その様子は確かに、将来記録に残すに値する人物になるとは思われなかったのだろう。

 で、彼自身は、その自らの境遇、源氏の棟梁として打倒平家の先鋒たるべき自分が、こんな有様であることへの忸怩たる思いに苦しみ抜いていたのかといえば、それがどうもそうでもなかったようだ。以仁王の令旨に応えて挙兵するのが34歳であるからその間実に二十年、頼朝は別段打倒平家のための準備を秘かに進める訳でもなく、流人らしく写経だの読経だのをしながら、おとなしく過ごしていた。ふたつの大恋愛などもした。ふたつめの恋は北条政子とのロマンスであったから、これは結果的には、北条時政という強力な後楯を得ることになった、という意味で図らずも平家打倒への大きな一歩となった、とはいえるかもしれないが。

 面白いのは、こうした世捨人的な流人頼朝が、十数年という短い期間に、専制的、独裁的な支配者に変貌していく様子である。この本の著者は、基本的には序文にあるごとく「できるだけ年代記に忠実に、彼の歴史的事業のあとをたど」るという姿勢を維持しながらも、その主体である頼朝の人間的な変化をも丁寧に追っていく。この辺り、実に興味深かった。

 大した兵力ももたずに駆けつけた弟義経を、黄瀬川のほとりで涙をながして喜び迎えいれた頼朝が、十年後、その義経を衣川に討ち滅ぼすのである。その変化の過程については、もうこの本を読んで頂くのが一番であろうけれども、頼朝が頼朝であらんがために、この変貌は必然であり必要不可欠であったのだろう。

 この本を一冊読んだだけでは、勿論鎌倉幕府の成立がいつであったが、確信の持てる解答を得られる訳ではないけれども、この所謂「源平合戦」の時代の概略を知るという意味においては実に有意義な読書であったとはいえる。また、先日読んだ『平清盛の闘い』は、同時代の都での出来事を扱っていたので、今回、東国からの視点でそれを見直す意味もあって、その点でも興味深いものがあった。多角的な観点、何事もやはりそれが大切である。対象をより理解する為にも、また、対象をより楽しむ為にも。

 ところで、蛭ケ小島、といえば下田街道だ。三嶋大社から発して天城峠を越えて伊豆半島の南端の下田に至るこの脇街道の、はじめの辺りである。そういえば、北条早雲が興国寺城のつぎにその拠点とした韮山城も、その近所であった。次のスーパーカブ110での史跡めぐり、この辺りをまわるのも悪くなさそうである。


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