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旧東海道 浜松市から湖西市 その2

 旧東海道 浜松市から湖西市
 その2・浜松城



 東から西へ、国道152号線として伸びてきた旧東海道が、南へ直角に向きを変え、国道257号線となる「連尺」の交差点から、北へ少し行くと、浜松市役所がある。この市役所の北西側に隣接するように、浜松城公園はある。

 現地の説明書きの一部を転載する。


 「浜松城は(中略)東西六〇〇メートル、南北六五〇メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三ノ丸、二ノ丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。」


 先日行った駿府城の外堀が、地図でみる限り大体600m四方、といったところだったから、この浜松城もかなりの広さであったことになるが、その城跡の大部分は、市街地化されて残されていない。ただ、天守台付近は、かなり良好な形で遺構が残っているようである。




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 「本丸」。綺麗に公園化されているので、お散歩には良い場所。ただ、時刻は七時になろうとし、夜明け頃の雨雲が嘘のように晴れ渡った空に陽も高くなり、だいぶ暑くなってきた。




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 徳川家康像。駿府城跡の家康像が大御所時代の年取った姿だったのに対し、こちらは浜松城にいた頃の若い姿。




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 本丸から見上げた天守門。2014年になって復元されたもの。




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近づいてみる。とても立派な造りで迫力がある。




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 このふたつの大きな石は、「鏡石」というそうだ。城主の権勢を誇示するために、石垣等にこうした巨石を使用する例は、他にもあるらしい。




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 門をくぐって中へ。天守曲輪と、天守台。そしてその上に建つ天守。浜松城に天守を建てたのは家康ではなく、豊臣時代に城主だった豊臣の家臣堀尾氏らしいが、いずれにせよ、ここに天守が聳えていた期間は長くはなく、江戸時代にはすでに失われていたようだ。今見られる天守は1958年建設の鉄筋コンクリート製で、よくできているとは思うが模擬天守であり、中は資料館になっている。が、天守門内部共々、例によって朝早すぎて見学できず。




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 しかしこの浜松城趾で最も観るべきは、模擬天守などではなく、この天守台及び天守曲輪周辺の石垣である。先日行った二俣城の天守台と同じく「野面積み」と呼ばれる方法で積み上げられている。この石垣を築いたのも家康ではなく堀尾時代のものらしいが、当時のままの石垣が残されていて、とても貴重なものである。




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 だからこんな看板も立てられる。一見、行き当たりばったりに積み上げられているようだが、内部の構造はきわめて複雑で、




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 バラバラにみえる石も、表面はこうしてぴったり綺麗にそろえられている。400年の間、こうして崩れずにあるということは、それなりの造りがなされている、ということなのだ。

 見附宿の記事のところでも触れたが、浜松城は、もともとあった引間城を拡張する形で築城された。その引間城があった場所というのが、




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 浜松城天守の西、南北に伸びる国道152号を渡ったところの小山の上の、この「東照宮」のある場所のようだ。引間城を築いたのは、駿河今川氏の分家である遠江今川氏だといわれている。

 桶狭間の戦いを経て、今川氏が滅亡した後、三河と遠州を領有することになった家康は、新しい領国である遠州の支配を安定させるため、まずは見附に築城を始めた。しかし駿河を手に入れた武田信玄と、近い将来に戦うことになることを予見した家康は、見附では天竜川を背負って信玄と戦わなければならなくなる危険性を考慮し、その本拠地を天竜川西岸の引間に移動した。

 家康は引間の名を「引く馬」ではえんぎが悪いとして浜松に改称、浜松城を築城する。その当時の浜松城の姿はあまりよくわかっていないらしいが、




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 「東照宮」の側近くにあった、この引間城の北口である「玄黙口」は、家康が入城してからも使用されていたようで、かの「三方ケ原の戦い」のとき、家康が浜松城に逃げ帰った際にも、ここから城内に入ったといわれているそうだ。

 元亀三(1572)年に開始された、武田信玄の「西上作戦」。袋井宿の西のはずれにある木原畷における最初の接触から、一言坂の戦い、そして二俣城攻城戦に至るまでの、武田、そして徳川の両軍勢の動きについては、このブログの過去記事のなかで追ってきたとおりである。で、元亀三年十二月十九日の二俣城の降伏、開城からほとんど間をおかない十二月二十二日早朝、武田二万五千の大軍は二俣城を出立、天竜川を渡河、浜松城に向った。

 場外に出てこれを迎え撃つほどの戦力を持たない家康は、籠城の準備を整えて待ち受ける。しかし南下していた武田軍は急に西へ方向転換、そのまま浜松城を素通りして三河を目差すような行動をみせる。

 これに驚いたのは家康であった。家康としては、このまま自分の城のすぐ側を信玄が通過し、その戦力を温存したまま織田信長の尾張に向うような事態は、清洲同盟の立場上も、遠州・三河を領する大名としての面子の上でも、絶対に避けなければならなかったことは、想像に難くない。家康はあわてて浜松城を出て、武田を追う。その数約八千。とてもではないが、武田の大軍に対抗できる戦力ではない。つまり、家康は信玄の計略に引っかかったのである。両軍は三方ケ原で会戦、結果はご存知の通りで、家康は這々の体で浜松城に逃げ帰ることとなった。

 家康の惨敗で終わった三方ケ原の戦い。思えば一言坂からずっと、武田軍に圧されっぱなしで、家康にはいいところがなかった。まあ、その戦力差を考えるならば仕方のないところではあるが、その一連の戦いの最後の方で、家康が一矢を報いた戦いがあった。その戦場となった場所へ、移動する。浜松城址から、北西方向へカブで数分。




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 ここ、「犀ケ崖(さいががけ)」。城に逃げ帰った徳川勢だが、その夜、この付近に陣を張っていた武田勢に奇襲をかけ、この崖に追い落としたという。ただこの奇襲によって、大勢に変化を与えるほどの打撃をあたえることなどは無論できず、徳川勢としては、痛手を負ったまま浜松城に追い込まれているという状況に変わりはなかった。

 しかし信玄は浜松城を攻めることなく、そのまま西進した。この信玄の「西上作戦」、その最終的な目標がどこにあったのか、上洛までを考えていたのか、それとも三河あたりまでを手中に収めることを目指していたのか、今ひとつはっきりしないらしいので、このときの信玄の行動の理由もはっきりしない。

 その後、信玄の急死によって「西上作戦」は中断され、武田勢は甲斐国に帰ってしまう訳だが、その意図がどのようなものであったにせよ、それは織田・徳川の清洲同盟にとっては最大級の危機が回避されたことを意味した、といってしまっても過言ではないのではないか。最悪の場合、徳川が攻め滅ぼされることもあり得た訳であるから。

 その後の浜松城は、というと、豊臣時代には前述のように堀尾氏が二代に渡って城主となり、江戸時代になってからは、明治に入って廃城となるまで、様々な譜代大名が城主となった。三河の一領主から、天下を統一し、征夷大将軍として幕府を開くまでになった家康のみならず、江戸時代にもここの城主となった者が次々と幕府の重役となったことから、「出世城」と呼ばれたことは有名である。

 では、次へ向おうか、というところで、次回へ続く。


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