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『わが闘争』その4

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
(1973/10)
アドルフ・ヒトラー

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マトモでないヒトラー

 一般論を展開し、読者に自分の持論を受け入れる用意をさせたヒトラーは、次第に、その危険な本性をあらわしてきた。『わが闘争』の上巻をまもなく読み終えようというところで、私は、そんな印象を抱いた。つまり、ヒトラーの犯罪的屁理屈、あるいは我々がナチズムと呼ぶところのものが、いよいよ正体をあらわしてきた、ということだ。

 何よりもその「民族と人種」と題された、分量の多い章において展開される、ヒトラー一流の反ユダヤ主義は、単に歴史的惨劇の理論的背景となったというに留まらず、これから起こり得る同様の狂気、さらには今現在起こっている馬鹿げた出来事を考える上で、非常に重要なものを含んでいると思われる点で、重要視し過ぎることはないと私は考える。

 (さらにいってしまうならば、今、3月11日の震災によって、あまりにも多くの失われるべきでない命を失いつつも、救える命を救おうと多くの人々が懸命に努めている真最中にあって、かつて組織的論理的に多くの人間の命を奪うことを、国家的事業として大々的に行われたことを思い、そしてその双方ともが、同じ人類によって為されているのだということを考えることは、決して意味のないことではないと私は思う。)

 そのめちゃくちゃな理屈は、その前の「崩壊の原因」の章にも、すでにあらわれる。ひとつ、例を挙げてみる。ヒトラーは、民族を弱体化する病気であるところの「梅毒」を、撲滅すべき病気であるとして、その方法についての自身の考えを展開する。

 簡単にそれをなぞってみよう。まず、梅毒の温床であるところの売春を、撲滅すべきだとヒトラーはいう。そのために、早婚が奨励される。若者が性のはけ口を娼婦に求めないためにだ。社会制度も、早婚を可能にする形に整えらえるべきだし、また、青年の健康的な発育も必要で、そのためにと、運動も奨励される。また、青少年の精神に害を与える書物や映画などは禁止されるべき、とされる。

 ヒトラーはさらにいう。民族の発展こそが究極の目的であり、その前にあっては、性欲の自由な発露などは決して許されるべきものではなく、結婚ですら、それ自体が目的であってはならず、あくまでも民族全体のためのものでなくてはならない。よって、不治の病に罹った者は、子孫を残すべきではない。それは民族の弱体化につながるから。

 何やら社会正義的な論調から、彼の理屈が一体どこに行き着いたか、我々は注意すべきだろう。ようするにヒトラーは、「反社会的」だと判断される芸術は禁止されるべきで、病弱な者、身体に障害をもつ者は、子孫を残す権利などない、といっているのだ。後日、ナチはこの考え方に則り、言論弾圧や、身体障害者虐待あるいは虐殺を実際にやってのけた。

 こんな調子で彼は、いよいよ「民族と人種」」の章に進んでいくのだが、そこでさらに我々は、ヒトラーの悪魔的詭弁をみせつけられることになる。その表題から想像できる通り、ここで彼は、アーリア人種の優秀さと、ユダヤ人種の劣等性を論じ、そこから帰結される自身の人種差別主義を正当化し、証明しようと試みている訳だが、その主張の根拠とされる、彼の所謂「自然の摂理」というものからして、もうすでにあやしい。

 それはようするにダーウィニスムの誤用、というよりは最低の悪用、というべきものだ。ヒトラーがそれを意識的にしているのかそうでないのかはわからないが、どちらにせよ、自分の理屈の都合に合わせて勝手に解釈していることは、一読して明かだ。

 ヒトラーは、自然界においては「強く優秀なものが生き残り、繁栄する」のだ、としているが、これがもう間違っている。ダーウィンが唱えたのは「適者生存」であり、「強者生存」ではないのだ。

 もし「強者生存」だとしたならば、サバンナで生き残るのはライオンだけ、ということになる理屈だが、実際は決してそんなことにはなり得ず、反対にむしろ、捕食者たちが全て滅んで、力の弱い草食動物たちが生き残る、ということの方があり得るといえる、というのが本当のところだ。

 ようは、生態系の法則としての「弱肉強食」と、進化論における「適者生存」をごたまぜにしてしまうと、こういう拙劣な誤解が生じるのだろう。そしてその誤解をヒトラーが論拠としてしまっている以上、彼の人種論はもう信用ならないことが証明されてしまった訳だが、もう少し、彼の話を聞いてみよう。

 誤解か悪用かはおくとして、ともかく「科学的」に始められた彼の人種論だが、何やら唐突に、「アーリア人」が登場する。ヒトラーは、この「アーリア人」というものをを「科学的」に定義しないまま、論を進めていく。だが実際には、この「アーリア人」という名前のもとに分類される民族というものを、ヒトラーのいうところの「ドイツ人」と関係づけるためには(そんなことが可能だとして)、大いに議論する必要があるだろう。

 そしてその「アーリア人」が、「唯一の文化創造者」であると、ヒトラーは主張するが、その具体的な例をひとつとして挙げることはない。そしてその対極として位置づけられる「ユダヤ人」についても、彼のいうことはどうも見当はずれだ。

 彼は「ユダヤ人」とは「ユダヤ民族」だと主張する。つまり、それはある「宗教共同体」に属する人々の総称ではなく、あるひとつの民族のことだというのだ。勿論、そうでなくては彼の人種論がそもそも「人種論」として成り立たなくなってしまうのだが、実際は、彼にとっては残念なことに、「ユダヤ人」という言葉はほとんど「ユダヤ教徒」と同義であり、「ユダヤ民族」などという人種はそもそも存在しない(これは日本でもよく誤解されている点ではあるが)。

 だから、ここでももう前提からしてすでに、彼の「人種論」は破綻してしまっている。しかし、前提が違っているからその理論の全てを否定する、という立場では、ルソーの主張する、社会契約による民主主義というものの正当性も、彼が前提とする「自然状態の人間」というものの姿が、現代の人類進化学だの類人猿学だのに、ことごとく否定されるであろうという事実をもって否定されてしまうことになる。

 それを承知のうえでなお、『人間不平等起源論』を価値あるものと認めるのならば、やはり、この『わが闘争』も、それなりに扱ってやらなければ不公平、というものだ。よって私はその後の彼の主張をもひと通り読んだのだが、それについて詳しく批判的に論ずることは、ここで敢えてしようと思わない。

 とにかく、自分にとって都合の悪いもの、自分の主張に合わないものは、それが民主主義だろうと、資本主義だろうと、マルクス主義だろうと、全て、彼の所謂「ユダヤ的」なものであり、「ユダヤ民族」の世界征服のための陰謀の産物だと、何の証拠も挙げることなく断定し、「ユダヤ人はエゴイストで寄生虫だ」と悪態をつくような彼のいい分は、もうマトモに扱うことなどできないようなシロモノだからだ。

 勿論ここでも、私はこの書物がもたらした惨劇、という歴史的結果によって、この書物を否定しようとは思わない。しかし、このメチャクチャな独断論に充ちた書物の影響が、あのような全世界的惨劇、すなわちあの未曾有の世界大戦や、信じ難いような大量虐殺の、発端のひとつとなり得たのだということ、このことは、大いに注視したい。

 こうして無理矢理「敵」をつくりだし、そしてその「敵」を貶め、蔑むことによって、苦境にある自国の民衆の自尊心を刺激し、甘言をもって籠絡する、という手段をもって、ひとつの共和国から独裁者が誕生したという事実。あれほどに高度に洗練された文化の担い手であったはずの人々が、時と場合によってはこんな馬鹿話にいいくるめられてしまう、ということの恐ろしさ。これらのことを、私は特に重要視したい。

 我々は3月11日の震災によって、全く予想もできなかった形で、国家的なダメージを負ってしまった。この先の復興事業は、もしかしたら想像以上に困難なものとなる可能性がある。そんなとき、全国民が同じ方向を向く、ということもあるいは必要なのかもしれない。

 しかしその「意志の統一」が、排他的な国粋主義や、それに伴う謂われのない外国人蔑視、あるいは偏狭で画一的な愛国主義の社会的強要や、それに異を唱えることをすら許さない頑迷な正義観の蔓延などによって、協力的であるよりは暗黙のうちの強制によって為されるのだとしたならば、例え一時的には復興やそれ以上のことを成し遂げられたとしても、その先に待つものは、決して明るいものではないだろう。

 ヒトラーは、決して単なる狂人ではない。このブログでも何度かとりあげているが、その社会だの政治だの民衆だのに対する観察眼、そしてその分析能力は、実際なるほどと思わされるものがある。そういうときの彼は、あるいはよい政治家になる素質をもった、社会的に有能な人物だといえたのかもしれない。

 しかしその彼が自説に固執するとき、論理的だったはずの彼が、がらりと様子を変え、非論理的で感情的な、どうしようもない独断論者になる。そのマトモでないヒトラーの姿こそは、実は歴史に残る最悪の独裁者の姿だということを、我々は忘れるべきではないだろう。感情的、無批判的になるとき、ひとは容易に狂気へと近づいていってしまうということ、このことを、我々は彼の姿から、知ることができるのではないだろうか。

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