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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

天方城


 天方城


 旧東海道、掛川宿の西の大池橋を起点とする、秋葉街道。それは大体、今でいうところの県道40号線として、北西方向に伸びて行くのであるが、太田川にぶつかる手前で右折、今度は県道58号線を川の東岸沿いに北上、天竜浜名湖線の戸錦駅の先の橋で太田川を渡ったところの交差点にあるのが、




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 ここである。この道が秋葉神社へと続く秋葉街道であることを示す、道標である。だが私、静岡市の自宅から、即ち東の方から上記の秋葉街道を辿ってここへ来た訳ではない。方向的には秋葉神社の方からやってきたのだ。どういうことかというと、実は私、二俣城と二俣の街を訪れたその帰り道に、ここへ寄り道をしたのである。

 二俣へ行くときには、私は袋井から北上するようなルートを辿ったのであるが、これは少しばかり遠回りであった。帰路は、できるだけ近道を辿ろうと、二俣から掛川へと直線的に続く道を選んだのであるが、それが、旧秋葉街道であった。

 この脇街道の周辺に、面白そうな場所がたくさんあることは判っていた。しかしだからこそ、この街道はいずれあらためて史跡めぐりをするつもりであり、今回は帰り道だと割り切って、数あるその面白そうな史跡への案内看板を見て見ない振りをしつつ通過していたのだが、「天方城」の看板を見るに及んでついに我慢ができなくなり、帰路からはずれてこちらにやってきてしまった、という訳である。




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 太田川の西岸を上流方向へ、県道58号を数百メートル走ると天森橋という交差点がある。




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 そこに架かる橋を渡って、道なりに進んで行くと、




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 案内看板があるので、その示す通りに進む。




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 また看板。住宅地のなかの道だが、看板を信じて進めば迷うことはない。




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 道はやがて山に入って行く。目的地が山城なのだから当り前なのだが、ちょっと不安になってくる。しかし所々に道標があるので、ここも信じて進んで行こう。




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 お茶畑のなかや、




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 林の中を進むこと2km弱、




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 突然駐車場が開ける。ここが、天方城址、である。

 天方城は元々は、ここよりも北の方にあったようである。城主は代々天方氏。駿河の今川氏と遠江の斯波氏との争いの時代にはその狭間で戦場となり、天方氏は今川氏方について戦った。

 城が、今その遺構をこうしてみられるこの場所に移動した正確な時期は不明らしいが、城主が天方山城守通興の頃のようである。今川氏の支配の元、比較的平穏だったこの遠江の地も、「桶狭間の戦い」の後には徳川の侵攻にその平安は乱されることとなる。

 通興は今川の武将としてこれに抵抗、永禄十二年(1569年)にはこの城において両者の激しい攻防戦が繰り広げられ、最終的には天方城側の降伏で決着した。その後再び徳川に抵抗したりなどということもあったようだが、結局は徳川配下におかれることとなる。が、今度は東からの武田氏の侵攻の前にさらされることとなった。

 元亀三年(1572年)九月、所謂「西上作戦」を開始して遠江に侵入した武田信玄の大軍を眼の前に、通興は抵抗を断念、城を捨てて徳川方と合流する。信玄は天方城将として久野弾正忠宗を配してこれを守らせるも、翌年には今度は徳川勢がこれを攻囲、激しい攻防戦の末、これを奪い返している。

 その後はようやく、徳川の支配の元に落ち着くようである。以上、城の駐車場にあった解説文をざっくりとまとめてみた。さらに詳しく知りたい方は、この解説文が、ほとんどそのままWikipediaの「天方城」の項目に転載されているので、そちらを読んで頂くのが早道だろうと思われる。……と、えらく手を抜いた蘊蓄語りも終わったところで、城跡を観に行ってみよう。




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 城の見取り図。御覧の通り、その構造は単純である。




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 上掲図の、駐車場から「主郭」部へと続く道を辿り、まずは城跡の中心部に向う両側に、「内堀」跡。




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 「主郭」部は、かなりの広さがあるものの、公園化されていて城跡の面影はあまりない。




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 中心部にある石碑。




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 これは、何の石碑なのかわからない。




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 「四阿」跡。




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 南側の「内堀」跡。しかし、本当に遺構なのか、それとも公園化されたときにできただけの「溝」なのか、ちょっとはっきりしない。




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 南側には展望台もある。




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 展望台からの眺め。思いの他、眺めがよかった。写真では小さすぎてみえないが、真正面に浜松の「アクトシティ」という、静岡県で最も高い建物がみえたので、ちょうど浜松市の中心部に向いている、ということになる。

 観るべきものは、大体こんなもので終わりである。周囲の山林をもう少し発掘調査すれば、堀切のひとつぐらいみつかりそうな気もするが、どうだろう。ところで、この天方城の歴史も終わりに近い頃、城主通興の子、通綱が、思わぬ形で歴史上の一事件に関わることとなる。

 天正七年(1579年)、二俣城において、家康の長男信康が、武田氏との内通を疑われて切腹したことについては、二俣城の記事のなかで触れた。そしてその際、介錯役の服部半蔵が、流れ落ちる涙についに刀を振り下ろすことができなかった、という逸話も紹介させて頂いた。

 しかし切腹というものは、介錯がないと地獄のような苦しみが長く続く、実に凄惨なものであるらしい。即ち,、特にそれが貴人である場合にはどうしても介錯役は必要なのである。そこで、服部半蔵のかわりに刀を振り下ろしたのが、本来は検分役としてその場に立ち会っていた通綱であった。無論それは信康のことを想い、努めを果たしたのだったけれど、主君の長男の首を斬った、という自責の念は通綱を苦しめ、結局、彼は高野山で出家してしまったという。

 嫡男を失った天方氏ではあったが、養子を迎えることで断絶はすることなく、それなりの名家として存続していく。しかしこの天方城は、道興の死後間もなく廃城となった。戦国期の山城の多くと同じく、戦乱のない世には不必要であった、ということだろう。

 と、いったところで、この寄り道も終了。もう、時間は9時半ぐらい。早朝3時に家を出て、カブで二俣まで走り、山歩きをし、イイカゲン体力も続かなくなってきた。また藤枝辺りで朝マックだね、これは(笑) それでは、また。


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