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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

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二俣城とその周辺 その4


 二俣城とその周辺
 その4・二俣の街、前半



 現在の日本の物流の動きというものを考えるとき、少なくとも、この二俣の街を「交通の要衝」と考える人はいないだろう。河口から天竜川を遡ること約25km、今でもなお北遠地区の中心ではあるのだが、この山間の街を、大型トラックや貨物列車が大量に通過するなんてことは起こるはずもなく、そしてまた、残念ながら国内外の観光客が大挙して押し寄せる、なんてこともない。

 しかし昔は違った。徳川氏と武田氏が、死力を尽くして奪い合うほどに二俣城は戦略的価値が高い城であったし、そうした城が築かれるほどに、ここは東西、そして南北の交通の、まさに要衝といえる場所であったのである。

 戦国時代における、徳川・武田両氏による遠江・駿河の奪い合いの最中にあっての、この二俣の重要性については、これまでの記事で触れてきたつもりであるが、江戸時代になり、二俣城が廃城となってから後にも、この街の北にある秋葉神社への参拝者の宿場として、また、内陸部と沿岸部を結ぶ通商路、所謂「塩の道」の中継点、またあるいは天竜川を利用した木材等の水運の中継点として、等々、その重要性を失うことはなかった。

 とうことで、せっかくここまで来たのだから、お城だけなく、街に残された史跡なども観に行ってみる。




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 まずは、ここ。二俣城址から少し北に行ったところにある建物。これは元々、町制時代の「二俣町役場」の建物であるが、今は、「本田宗一郎ものづくり伝承館」という施設として利用されている。出し抜けに本田宗一郎の名前が出てきたが、ここ二俣は、かの本田技研工業の創業者、本田宗一郎の生地なのである。つまり、スーパーカブの名を冠したバイクでここに来る、ということは、一種の「聖地巡礼」的な意味もあるのだ、なんてね。


 

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 それに隣接するのが、この「諏訪神社」。二俣城を一時期領有した武田氏ゆかりの神社か、と思ったが、創建はもっとずっと古いようだった。




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 さらにその隣にあるのが、「清瀧寺」。まず眼に入るのは、この泉と、「井戸櫓」である。これは、城内に水源がなく天竜川から水を汲んでいた二俣城の井戸櫓を、復元したものである。防御堅牢なる二俣城を攻めあぐねていた武田勝頼はこの井戸櫓を発見し、天竜川上流から大量の筏を流してこれを破壊、ようやく開城に追い込んだ、という訳である。だがこのお寺には、二俣城とはもっと深い因縁がある。




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 「長篠の戦い」の後の、再び徳川の配下に戻った二俣城において、天正七年(1579年)九月十五日、家康の嫡男信康が切腹をした。信康が、その母即ち家康の正妻である築山御前と共に、武田と通じていると織田信長が疑い、その処断を家康に求めたためだ、とされている。これが本当ならば、織田・徳川の所謂「清洲同盟」というものが、決して対等な同盟関係ではなかったことが察せられるというものである。

 ただ近年では、信長の意向というよりは、家康と信康との確執にその根本的原因をみるべきだという説もあるようであるが、いずれにせよ、父がその子に切腹を命じたのだから、これは悲劇と呼ぶ他はない。時代が乱世でなかったならば、いくら武家といっても、家内のゴタゴタぐらいで嫡男が死を命じられるなどということはなかっただろう。廃嫡か、出家を命じられるぐらいのものだったはずだ。信康切腹の際、介錯を務めたのはかの服部半蔵であったが、彼はとめどなく流れおちる涙に、ついにその刀を振り下ろすことができなかったという。そして信康の遺体は、この清瀧寺に葬られたのだ。




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 寛文八年(1668年)建立という山門を抜け、




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 墓地の真ん中にあるこの石段を登ったところに、




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 信康の廟所がある。その本当の理由がなんであれ、自身の長男に死を命じなければならなかった家康の心中は察するにあまりある、というものである。この廟などの建立を命じたのは家康だった。また、元々はこの寺は別の名前だったというが、家康がここを訪れた際に、先ほどの門前の泉の見て、清瀧寺と改めさせたのだという。また、当時二俣城の城主であった大久保忠世等の墓も、ここにあるそうだ。




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 もうひとつ、この寺の鐘にもエピソードが。本田宗一郎というひとは、本当にこういう逸話に事欠かない人である。

 さて、もう少し街の様子をみにいこうか、というところで、もい一度、次回に続きます


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