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旧東海道 磐田市・その4


 旧東海道 磐田市・その4 一言坂古戦場


 天竜川東岸、「池田の渡船場跡」から、また川沿いを南下、県道413号線までもどり、その県道(ちなみにこれが「現」東海道である)に入って東、即ち見附宿方向に少し走ると、「一言」という信号がある。その先にあるのが、




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 「一言坂の戦跡」碑である。これでやっと、スタート地点の木原で始まった戦いの、「その後」の出来事が起こった場所に来られた訳だ。

 徳川の斥候部隊を指揮していたのは内藤信成という武将であったが、無論その小部隊だけで武田軍に対応できる訳はなく、家康は彼に応援を出す。それでも多勢に無勢の状況はかわらず、徳川勢は本格的な戦闘を始めることなく退却を始める。以下、主に小和田哲男氏の「戦国静岡の城と武将と合戦と』を参考に、戦いを追ってみよう。

 このときの徳川勢の数は、4000とか3000とか、史料によっていろいろいわれているらしいが、小和田氏によると、当時の徳川の総兵力でも8000ぐらいとだというところから、実際には1200ぐらいではなかったか、とのこと。いずれにせよ、まともに武田軍と戦える数ではなかった。どうも、武田軍の侵攻の速度が、家康の予想よりも早かった、ということらしい。つまり、家康はまだ準備ができていなかったのではないか。なんにしても、この戦いは終始、武田から徳川軍が逃げる、という形で推移していった。

 まず徳川軍は、見附宿のあたりで一度、武田軍に追いつかれたという。そこで徳川勢は、見附の町屋に火をつけ、その煙に紛れて逃げた。ただ、見附の人々が、自分たちが建物に火をつけて徳川軍の退却を助けたのだ、とお上に恩をきせようと訴えている文書もあるという。いずれにせよ、このときは徳川勢は武田の追っ手から逃れることができた。

 天竜川の先、浜松城を目指す徳川勢。しかし再び追いつかれる。それが、この一言坂であった。磐田の台地から、天竜川河畔の平地へと下って行くこの坂。先ほどの戦跡碑は県道413線沿いにあるが、本来の「一言坂」は、




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 県道の一本北側の、この坂道だそうだ。そしてこの道は、江戸時代に「姫街道」と呼ばれることになる。そう、見附にその起点があった、あの脇街道である。ここで、再び武田勢に追いつかれた徳川勢。自らは坂の下、そして追っ手は坂の上という、絶対不利な位置関係にある、最悪の状況だといえた。偵察隊どころか、最悪の場合家康の本隊までに危険が及ぼうかというこの危機に、追い迫る敵前に立ち塞がったのが本多忠勝であった。

 本多平八郎忠勝は数々の武勇で知られた、徳川最古参の武将のひとりだが、このときも、切っ先にとまったトンボが切れたといわれる名槍「蜻蛉切」を振るって殿をつとめた。その奮闘の甲斐あって、徳川軍は無事退却、浜松城に帰りおおせたのだった。

 この一言坂の戦いの後、武田勢は見附を占領した。そしてそこに立てられた落書が、


  家康にすぎたるものがふたつあり
  からのかしらに本多平八



 というものだった。これは信玄の近習である小杉右近助というひとが書いたらしいが、「からのかしら(唐の頭)」というのは、貴重品であるヤクの尾毛を飾りにした兜のことで、「本多平八」はいうまでもなく忠勝のことである。共に、立派すぎて家康ごときにはもったいない、とうたわれている訳で、敵にここまで賞賛されるほどに、忠勝の戦いぶりが印象的だったのだろう。

 ただ、敵を賞賛して落書など立てるぐらいに、武田勢には余裕があった、とみることもできる訳だ。見附を占領したならば、もう天竜川の東岸までは手に入れたも同然であり、そして天竜川を越えれば、浜松城まではすぐである。しかし信玄としては、その前に落としておきたい城がひとつあった。それが、二俣城である。

 尾張を目指す信玄の進路上にある浜松城ではなく、東海道からは少し北に外れた位置にある二俣城を、どうして信玄は攻撃したのか。小和田氏の推測通り信玄には始めから浜松城を落とすつもりがなかったと考えるならば、この動きは合理的かな、という気がする。

 二俣城が生きたままだと、天竜川渡河は困難なままであり、それはこれから西を目指す信玄にとっては、東海道経由にしろ、青崩峠経由にしろ、補給路、およびいざというときの退路が危険に晒されることを意味するだろうし、第一、これから西進するにあたり、いくら数の上では自軍が有利だとはいえ、ふたつの敵城の間を抜けて行くというのは、両側面から挟み撃ちにあう危険がある訳で、これはあまりにも無謀だろう。

 逆に二俣城さえ落としてしまえば、青崩峠経由の行き来も、天竜川渡河も両方容易になるし、現状では浜松城の支城として機能する二俣城を、そのまま浜松城を牽制する「付け城」として、今度はこちらが有効利用できることになる。こうなれば確かに、家康の本城である浜松城を落とす労を省くことができそうである……と、地図上での位置関係を見ただけの素人ニワカ軍師は考えてみたのだが、どうでしょうか(笑)

 信玄には天竜川を渡る手段がなかった、ということもあるらしい。「暴れ天竜」といわれるこの川、江戸時代に入ってからも、渡しには船が使用されたということは、大井川のように容易に歩いて渡れるような川ではなかった、ということだ。無論家康は浅瀬を知っていただろうし、船も持っていただろうけれども、地理不案内で船も持たない信玄は、一から渡河地点を探さなくてはならない。これは簡単な話ではなかっただろう。

 とにかく信玄は天竜川東岸を北上、二俣城攻めに着手することになる。私としても、せっかくここまできたのだから、そのまま信玄の進軍ルートを追って二俣城まで行きたいところだが、時間の関係で今回は断念。また別の機会に。

 ということで、今回はここまで。富士川西岸から始まった我が「早朝お散歩史跡めぐりツーリング」も、安倍川、大井川を越えて、ようやく天竜川まできました。天竜川を越えれば浜松、いよいよ静岡の自宅から遠くなってきたので、そろそろ、あの「木箱」の出番かな、などと思いつつ、お別れである。では、また。




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 おまけ。帰路はそのまま県道413号を選んだのだが、この道は例の三ケ野坂あたりで国道1号の高架道路に合流してしまうので、地図で旧東海道へ抜ける道を探し、その道へ入ろうとしたら、これがあった。「大正の道」。やっとみつけましたね。


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