FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『流刑の神々・精霊物語』


 反自然の「現代性」




haine_convert_20160504204810.jpg

 岩波文庫 『流刑の神々・精霊物語』 ハインリッヒ・ハイネ著 小沢俊夫訳
 ISBN4-00-324186-X



 ハインリッヒ・ハイネは、文学史的に分類するならば、19世紀のドイツロマン派に属する詩人、ということになるのだろうけれど、以前にも書いたが、なかなかそう一筋縄ではいかない作家で、相変わらず私にとっては魅力的であり、また捉えづらい作家である。

 ただ、今回読んだこの作品は、「ロマン派的」という枠に収めやすい、という点では判りやすい、といえるかもしれない。少なくとも、ここで扱われているものと主題を共有している、ミシュレの『魔女』を読む為の準備的な書物として、まずはこれから、という心持ちで読むことができるくらいには、理解はしやすい本である。しかし無論それは、この本を軽々に扱ってよい、ということを意味する訳ではない。繰り返すが、その主題はミシュレの『魔女』と共通している。

 即ち、ヨーロッパへのキリスト教伝搬の歴史、である。

 ハイネはそれを、このふたつの論文、というよりはエセーのなかに、ユーモラスで軽やかな筆致で描いている。読者は、殊に我々のようなヨーロッパに生まれ育った訳でもなく、また、彼の地のキリスト教徒でもない「部外者」は、それを何か面白い昔話の紹介のように読んでしまいたくなる。しかし彼は確かにここで、キリスト教の歴史の暗黒部分、キリスト教がその勢力を急激に広めていた時代に犯した罪を、我々に告発しているのである。

 キリスト教が、この本で主に対象とされているゲルマン族やケルト族に伝わったのがいつ頃なのか、正確に指し示すことは困難だけれど、少なくとも、それ以前にはすでに、ゲルマン族もケルト族も、それぞれが独自の文化を高度に発達させていたことは確かである。

 無論当時の西洋の中心はローマ帝国にあり、ローマ人からみたならば他のどの地域も「蛮族の地」、「未開の地」と呼びたくもなっただろうけれど、ヨーロッパの北の果てにも、完全に自律し、そして何百年でも持続可能な独自の文化が、確かにいくつもあった。そしてそれぞれが、それぞれの価値観、世界観を抱いていた。そしてそれを象徴的にあらわす宗教もあった、妖しくも美しい文学的表現を伴って。

 そう、ここでいう「文学的表現」とは、単に叙事詩的神話のことをいっているのではない。もっと広義の、世界を神話的存在に充たされたものとして表象するということ、つまり自分たちを取り巻く世界が、自分たちのみならず「精霊達」の住処でもあるのだと信じる、ということをいっているのである。

 樫の森を抜ける生命の風が吹く、ニンフェやウンディーネ、コーボルト、ヴァルキューレなど、こうしたまさしくロマンチックな存在に充たされた古来のヨーロッパを、アルプスの彼方から、根本において反宇宙的で、生というものを罪悪と考えるキリスト教がやってきて支配しようというとき、それら先住の精霊達を、新参の禁欲主義者は無論無視する訳にはいかなかった。

 カトリック教会は彼らの存在を否定しなかった。むしろ積極的に彼らの存在を肯定し、利用した。そう、本来きわめて論理的、思弁的な宗教であるキリスト教が、無学であるどころか「野蛮」ですらあるヨーロッパの異教徒たちに、自分たちの「正義」を理解させる為に、精霊たちを「悪魔」として対比させたのである。

 これは実際巧妙な方法であった。そして福音書に語られるたとえ話にもひけをとらない、正確な比喩であった。つまり、事実生命やその営み、即ち「自然」というものの象徴である精霊達は、キリスト教的観点からはまさしく「反キリスト者」の僕と呼ぶべき者達であったのだから、そこには微塵の嘘もなかったといえる訳だ。

 その結果、精霊達は明るい地上を追われ、地下の暗闇の住民として細々と生きる存在と成り果てた。自然は善悪の彼岸にある。だから彼らもまたそうだった。しかし自らのみを正義とする者にとっては、善悪の彼岸にあること自体が悪であった。精霊達は悪魔となった。

 こうした「流刑の神々」の現状について、ハイネはここに語っている訳であり、『精霊物語』の後ろの方に挙げられたタンホイザーの物語は、確かにそれを端的に表わしている。だがやはりハイネは詩人でありすぎはしないだろうか。その表現はあまりにロマンチックでありすぎないだろうか。というのは、それは単なる「教義」にとどまることなく、そしてまた「物語」に語られるばかりでもなく、実際に、ある残酷な出来事として、歴史上に具現してしまったからである。

 そう、またしても繰り返すが、このハイネの小品は、ミシュレの『魔女』と主題を共有している。そして『魔女』のほうで扱われる素材は、他でもない、所謂「魔女裁判」なのである。

 カトリック教会の所謂「三位一体(父・子・精霊)」には、女性的なものが欠けている、とは心理学者のユングが指摘したところである。神的なものを形作る「聖数」は本来「4」であるべきであるのだが、ここでは第四の位格であるはずの「ソフィア」がいない、というのだ。これはキリスト教の神学が、強い「男性的原理」に支配されていることを意味する。

 (ソフィアの代役としてのマリア、それも聖母マリアだけでなく「マグダラのマリア」を含めての「マリア」についても、実に興味深く、しかもここで扱われている事柄に極めて関係深いのであるが、ここではあまりに煩雑になる怖れがあるので触れずにおく。しかし機会があれば是非考えてみたい事柄である。)


 だがミシュレのいうことを信じるならば、古来の「自然崇拝」の宗教観の世界では、霊的、神的なものと関わるのは主に女達であった。子を産む女は生命の秘密に通じ、かまどを扱う女はあらゆる薬草に精通していた。女は自然の一部であった。女は自然に問いかけはしない。「問う」のはいつでも男である。女はただ行うのみだ。自然そのものと同じく、彼女等はむしろ「答え」なのだから。

 よって、カトリック教会がそうした女達を「魔女」として排斥しようとしたことは、ヨーロッパの古い神々に教会がしたことと、「自然の排除」という、同じ構造もをもっているのであり、そうした意味ではそれを理解することは(賛同はできないにしても)比較的容易いことである。

 しかしここで気をつけるべきことがある。高橋義人氏が著書『魔女とヨーロッパ』の序文、それも最初の一行目から指摘している通り、所謂「魔女狩り」というものが「暗黒の中世」の産物であって、近代科学なるものの誕生がそれを終わらせたのだ、という一般的な認識が、誤解である、ということだ。

 
 確かに魔女狩りは中世末期に始まり、十八世紀の啓蒙主義の時代にほぼ終わりを告げた。しかし魔女狩りが猖獗をきわめたのは十六・十七世紀のことで、魔女狩りがその頂点を迎えたのは、一六〇〇年のことである。十六・十七世紀——それはルネサンスやバロックの時代であると同時に、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートンの世紀、「偉大なる近代科学」の誕生の時代だった。

(『魔女とヨーロッパ』冒頭)


 即ちそれは意外なほどに最近の出来事なのであり、「暗黒の中世」の盲目性、蒙昧性が産んだ狂気だというばかりではなく、むしろ、確かに現代文明の直接的な前段階であるところの「近代科学」の時代に活性化されたシロモノである、ということである。

 そう、古き良き時代の「女たち」に、「魔女」の名を与えて排斥したのは確かにキリスト教であったかもしれない。そして異端審問から火あぶりまでの「システム」を完成させ、運用したのも確かに教会であろう。そして魔女狩りは、「近代科学」の台頭に教会が危機感を抱き、それを強めたせいで、盛んになっていったという側面もあっただろう。だが新時代の科学的思考もまた、自然を「客観視」することは知っても、それを「敵視」することをやめることはできなかったのも事実だ。近代に入って「都市化」していく社会環境は、「暗黒の中世」の支配者たちと同じ論理的背景をもっていたといい得るのである。

 ハイネの著作を読む我々は、ハイネとともに、麗しき精霊達を悪魔と呼んで暗闇に追いやったキリスト教に腹を立て、ロマンチックな思いを太古の森に馳せることができるのかもしれない。だが「魔女狩りの近代性」を知った以上は、我々現代人がむしろ、自らの「正義」のために「悪」を排斥する者達に近いことを、まずは思うべきではないだろうか。

 そうだ、我々は逆に、現代的合理主義の立場から、他ならぬキリスト教について、その考え方が古く、非合理的で、偏狭だという理由で、換言するならば「科学的でない」という理由で、その教義を一個の誤謬であるとみなしてはいないだろうか。その歴史の暗黒面故に、キリスト教が西欧世界の発展に大きく寄与してきたことさえも、十把一絡げ的に全否定しようとはしていないだろうか。それを過去の遺物と呼び、現代科学の滑稽な反対物として、排斥しようとしていないだろうか。

 そうであるならば、我々は、かつて古きヨーロッパでキリスト教が犯したと同じ過ち、また近代の黎明期に起こった半狂乱の魔女狩りと同じ過ち、そして人類の歴史上において数限りなく繰り返されてきた同じ過ちを、またしても犯していることになる。

 この小さなエセーを読むことで、我々は未だ、それほど進歩している訳でも、啓蒙されている訳でも、充分に「客観的」である訳でもなく、偏見と先入見と排他性と狭隘な倫理観に充ちており、紀元後の最初の千年紀の人々とそれほど変わってはいないのだと自覚させられるべきなのだろう。そしてまた、一見、組しやすそうに思えても、やはりハイネは難解であると、あらためて思い知らされるのである。


関連記事
ミシュレ 『ジャンヌ・ダルク』その1・史実とロマン
ユング 『ヨブへの答え』・意識の歴史的変化
クリスティ=マレイ 『異端の歴史』・少数意見



にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する