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興国寺城 その2


 興国寺城 その2


 築城時期ははっきりしないらしいが、北条早雲が入城したことで、歴史の表舞台に立つこととなった興国寺城。だから、正確には早雲を「初代城主」とするのは間違い、ということになろうが、やがて関東の一大勢力となるべき戦国大名北条氏が、ここから第一歩を踏み出した、ということは確かにいえるだろう。ただ早雲は、長くこの城に留まっていた訳ではない。伊豆の堀越公方を討つと、その後は堀越御所の近くに韮山城を築いてそこに移ってしまうからだ。伊豆を一気に支配下に置く為にはその方が場所的に都合が良かったのだろう。

 で、その後の興国寺城はどうなったのかというと、これまたいろいろとややこしいので思いっきり端折ってしまうが、この城のある駿河国東部というのは、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、そして相模の北条氏という有力大名たちの、三つ巴の勢力争いの真ん中に位置する為に、戦国時代を通じて、この三者(後には今川に替わって徳川も加わるので四者になるが)に入れ替わりたち替わりで占有されることとなった。そして最終的には、徳川幕府のもと、興国寺藩の藩主の居城となるに至るのである。

 だから、いま見ることのできる興国寺城の姿は、こうした様々な勢力が、それぞれ占有したときに、自分に気に入るように増築なりリフォームなりを施していった、その最終的な形のものの遺構、ということになる。『その1』で紹介した『戦国静岡の城と武将と合戦と』のなかで、著者の小和田氏は、早雲が入城した時点では、本丸部分だけしか無かったのではないか、としている。だとすると私が今立っている、穂見神社だとか石碑だとかがある辺りは、その城の最も古い部分の北端ということになる訳だ。




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 一応、神社の辺りに展示してあったものを。ちょっと見にくいけれど、参考にしてください。神社の東側に登り口があるので、そこから天守台へとあがることができる。




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 まずみえてくるのが、「天守台石垣」である。天守は勿論のこと、石垣も戦国期の山城にあったとは考えにくいので、この城跡のかなり新しい部分にあたる、とみてよいだろう。




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 その石垣の上、「天守台跡」。散見される石は、天守の礎石。





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 天守台から尾根伝いに西へいくと、「西櫓台」。




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 そこからの景色。本丸から三の丸までが一望できる。写真右の、本丸西側の土塁の規模の大きさもおわかり頂けると思う。




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 また天守台まで戻り、天守北側の「大空堀」跡を見下ろす。この堀もまた、実に大規模で迫力がある。次は、この堀の底へと降りる道をめざす。




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 その途中。今度は東側の土塁。こちらも大きい。




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 「大空堀」の底に立ち、西の方を見たところ。左の斜面が天守台である。こちらから攻め入るのはまず不可能だろう。




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 東にも堀が続いていたので行ってみる。




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 こんなところに出た。谷底に草が生い茂っている感じ。城の東側になるが、どうもこちら側には水堀が掘られ、この辺りに船着き場があったらしい。




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 Uターンし、堀の底を西へ進んだところで、天守台から見下ろしたときに見えた、城の北側へと続く道を登ってみることにする。




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 登りきったところ。とくに何も見当たらないが、どうも、ここにも大きな曲輪があったようだ。




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 そこから、大空堀の向こうの天守台を望む。攻め手にとっては絶望的な景色。こういう堀は、なんとなく、武田の築城っぽいなと、にわか歴史ファンは考えてみる。……どうなんだろう?他にみつかっている三日月堀の痕跡は、明らかに武田流築城術によるものらしいが。




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 また堀へ降りて、さらに西へ。白い花が咲いていた。葉っぱをみるとイチゴみたいだが、野苺か何かかな。




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 その先、斜面にみっつ、直径50cmぐらいの怪しげな横穴。




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 何だろう。発掘の跡か何かだろうか。何の支えもなく形を保っているので、そんなに古いものではなさそう。怖いので入りませんが(笑)。




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 さらに進む。




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 城の西側に出た。ただの住宅地だ。位置的には 、先ほど行った西櫓台の下あたりになる。こちらにも、水堀があったらしい。ここでまたUターン。ずっと戻って、




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 東側の土塁の外側に、こんな小道があったので辿ってみると、




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 駐車場に出ました。ただいま、カブ君。この辺りは、「石火矢台」跡、になるようだ。これで、大体城跡全体をまわってこれたかな。

 「北条早雲旗揚げの城」として、歴史の大きなアクセントとなったこの興国寺城であるが、その幕切れは意外なものであった。先ほど少し触れたように、最終的には興国寺藩の藩主の城となった、のは確かなのだが、その終焉の時はそれから直ぐに訪れた。

 「その1」で見た通り、「初代城主北条早雲の石碑」の横に、「末代城主天野康景の石碑」というのがあったが、この天野康景というひと、家康に従い幾多の合戦を戦った譜代大名で、元は景能という名だったのを家康から「康」の字を拝領して改名した上に、慶長六年(1601年)に興国寺藩一万石を与えられてこの興国寺の城主となった、というから、どれほど家康の信頼があつかったか、わかるというものである。

 田沼街道のときにも少し書いたが、東海道沿いの、こんなに江戸に近いところに領地を与えられる、ということの意味は、きわめて重大なものがある。参勤交代の事ひとつとってもそれは明らかだろう。ここから江戸への道中など、箱根は越えなければならないとしても、九州や四国から遠路はるばる歩いてこなければならない大名達と比べるならば、ちょっとした小旅行みたいなものである。こんなよいところの藩主になれたのに、ひとつの事件が康景の運命を変えてしまった。『戦国静岡の…』に記されているところを、要約してみる。

 康景は興国寺城を、中世の「軍事拠点」としての城から、近世の「政治の場」としての城へと改築を始めたのであるが、慶長十二年(1607年)、その建築のために集めた資材が盗まれるという事件が頻発したため、警備を厳重にしたところ、近隣の百姓たちが犯人であることがわかった。で、ついに現場をおさえて、ある足軽が犯人の百姓を捕らえようとしたところ、抵抗されたため斬りつけてしまった。しかしこの百姓、切られながらも逃げのび、図々しくも代官に「興国寺城の足軽に斬られた」と訴えたために、事が大きくなってしまった。

 よく、武士は「切り捨て御免」だなどといわれるが、実際はそんなに単純ではなかったらしい。しかもこの百姓、幕府の直轄地である駿河国の百姓、すなわち将軍家康直属の百姓であったから、さらにおおごととなった。なんと家康が直々に、その斬った足軽を差し出せ、と康景にいってきたのである。

 それ以前にも、代官から足軽を差し出すよういわれながらも、「盗人を斬っただけだ」と取り合わなかった康景だったが、何と家康に対しても、同じく、足軽はただ盗人を斬っただけだといって、足軽に罪は無い、罰するなら私を罰してくれと返答した。無論それで収まるはずもなく、幕府はさらに重ねて足軽の身柄引き渡しを求めてきた。すると康景、今度はなんと、城を出て姿をくらましてしまったのである。

 その結果、康景は改易、興国寺藩はおとりつぶし、そして、早雲旗揚げの輝かしい歴史を持つ興国寺城は、そのまま廃城となってしまった。こうした次第で、天野三郎兵衛康景、見事、興国寺城末代城主とはなったのである。小和田氏は、「足軽ひとりをかばって大名の地位を捨てた気骨ある武将」と彼を評しているが、私は、その為に路頭に迷うこととなった彼の家臣達のことを思うと、そう手放しに賞賛する気にはなれないのだが、どうだろうか。
 
 戦国時代の発端からその終焉までの、さまざまな歴史ドラマをみてきたであろうこの興国寺城。その遺構がよく残っているため国の史跡に指定され、まだ発掘調査が続いている。何かが発見され、歴史の解明がさらに進めば嬉しい事である。さて、そろそろ腹もへってきたことだし、今回は帰るとしよう。富士市で寄り道して朝マックでも食べていくか。





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