FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『悦ばしき知識」

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)
(1993/07)
フリードリッヒ ニーチェ

商品詳細を見る


不都合な哲学

 巷では、『超訳ニーチェの言葉』なる本が、売り上げを伸ばしているらしい。ニーチェ関連の書籍に「売れてます」の札がつく、というのはどうも違和感があるので、ネット上のレビューなどを少しみてまわった。

 するとそこには、「生きる勇気をもらった」だとか、「人生観が変わった」だとか、よくある自己啓発本の感想みたいな言葉が並んでおり、私はまた違和感を覚えた。なんだかおかしい。

 多分、こういう本を買う人は、ニーチェに初めて触れる人だろう。そういう人たちが彼の言葉を知って、「元気づけられました」とかそんな類いの感想を、はたして本当に覚えることができるものなのか、私には大いに疑問だった。

 私の「初めてのニーチェ体験」は、全然違うものだった。きっかけは、まだドイツ文学に興味を抱きはじめて間もない頃に、ヘッセの『車輪の下』のはじめのほうで、

 「ここでは、ツァラツストラのことばを知らなくても、教育のある人間として暮らしていけた。」

 という一文を読み、ああ、ツァラツストラっていうのを読まないと教育ある人間とはいえないのか、と合点し、早速本屋で岩波文庫版のツァラツストラを買ってきた、というところだ。で、読んでみての感想はというと、私の当時の日記によれば、「哲学者というのは口うるさい」というものだった。

 ようするに、よくわからなかったのだろう。いきなりツァラツストラはやめたほうがよさそうだ、と現在の私ならば、当時の私にアドバイスもできるのだが。まあ、全くわからなかった訳でもなく、幾らかは理解できた部分もあったのだが、それも、当時の私には気に入らなかった。ひどい逆説家だと思った。わざわざひとの気に障ることをいって喜んでいるようにしか思われなかった。

 当時の、つまり十代の私は、絶対善、というものの根拠が、きっとどこかにあるはずだと信じていたのだ。唯一の神様、というよりは、新プラトン主義の「一にして善なるもの」らしき考え方が、一番私にはしっくりくる世界観ではなかっただろうか。勿論、プロティノスやプロクロスなどは、名前すら知らなかったが。だから、ニーチェなどはお気に召すはずはなかったのだ。

 で、その後、カントを少しかじり、ショウペンハウアの『意思と表象としての世界』を読むに至って大いに驚嘆し感動し、それまでの、その疑似新プラトン主義を全否定するまでは(今では全否定まではしていませんが)、ニーチェを読もうという気にはなれなかった。そのせいで、私は二十歳を過ぎるまで、ほとんどニーチェを読まなかったのだ。

 自分のニーチェとの出会いがこんな具合だったので、この『ニーチェの言葉』なる本の受け入れられ方に、私は首を傾げてしまったのだ。皆さんホントに、彼の言葉に素直に頷くことができるんですか、と、もう少しあれこれ調べてみると、どうやらこの本、ニーチェの入門書的なものではないらしことがわかってきた。

 私はこの本を読んでいないので何ともいえないが、つまりは、ニーチェの言葉から、現代の自己啓発本みたいなものを選びとって、それを集めて一冊にしたと、そういうことなのだろう。だからその反応も、自己啓発本の感想みたいなものになる訳だ。しかし、こういうやり方は、どうなのだろう。

 もしもニーチェの思想を、この現代日本においてそのまま実践したとしたら、多分、その人は少なくとも普通の社会人とは看做されない人物になってしまうはずだ。そう考えると、とても、こんな「一般受け」する本など作れないはずではないだろうか。

 だとすれば、これはニーチェの思想の「都合の良い」ものだけを、自分勝手に解釈した本だ、ということになる。勿論、単に翻訳するだけでも、そこに翻訳者の恣意が入り込むものだ。しかしだからといって、「売れる本」に仕立て直してよいということにはならない。少し乱暴な言い方をすれば、これでは、目的は違うがやり方はナチスと同じではないか。

 あるいは、私の考え方、ニーチェ観が、的外れなのだろうか。その可能性もある。不安になった私は、書棚から一冊、ニーチェを抜き取る。盲滅法に選んだその一冊が、『悦ばしき知識』だった。私は、彼の思想の「不都合な」部分、即ち現代社会を生きる者にはどうにも賛同しかねるような、そんな言葉をこの本から拾ってみることにした。

 勿論、ことさらにニーチェを「不都合な」哲学者に仕立て上げることもまた、その反対と同じく本来避けるべきことだ。それを承知のうえで、自分のニーチェ観を今一度確認するために、また、『ニーチェの言葉』を読んで彼の哲学に興味をもった人が、本格的に彼の著作を読んでびっくりしないよう、「彼にはこんな面もありますよ」という紹介にでもなれば、ぐらいの感じで、ざっくりやってみよう。


 「神様がどこででも御覧になっていらっしゃるって、本当なの?」と幼い少女が母親にたずねた。・・・「でもわたし、そんなのひどいと思うわ」、・・・哲学者のとっての警告だ!

 愛は恋人に欲情さえもゆるす。

 弱者の強み。・・・すべて女たちは、自分の弱さを誇張することにかけては巧妙なものである。

 男の本性は意志で、女の本性は応諾である。

 「この子をどうしたらいいでしょう?」と彼は尋ねた、「これは見すぼらしくて、不具で、死ぬほどのいのちすらないといったざまです」。「殺すのだ」、と聖者は怖ろしい声で叫んだ、(中略)「子供を生かしておく方が、もっと残忍なことではないか?」

 笑いというのは、良心の呵責もなしに他人の不幸を喜ぶことだ。

 認識に遅鈍な者たちは、遅鈍も認識の一部だと考える。

 「善といい悪というも、神の先入見である」、・・・と蛇は言った。

 かつてはこれとは事情が逆であった。労働には、良心の疚しさがつきものであった。(中略)「高貴と栄誉は、ただ閑暇と戦闘のもとにのみある」・・・これこそ古代の先入見の宣言であった!

 それがどうした? 一体おれの書いたものを誰が読む?



 いや、何度もいいますが、ニーチェにはこういう面もありますよ、という見本であって、これが彼の正体だ、などといっている訳ではありません。しかしこうして抜き出してしまうと、実にひどい哲学者だ、という感じがしてくる。これは、つまりが「恣意的な抜粋」というものが、読者の印象を操作してしまうことのひとつの例証になるのではないだろうか。 

 ニーチェの哲学というものは、はっきりと体系化されていない分、いかようにも解釈し得る余地を残しており、それが全体の理解を困難にし、そして都合の良いように理解されてしまう危険を孕んでいるのだと、私は思う。だから、彼の哲学とは、学校や「ダイジェスト版」で学ぶべきものではなないし、それのみならず、彼の著作をただ読んで知るべきものですらないと私は考える。

 うまくいえないが、多分彼の哲学は、「経験」すべき哲学なのではないだろうか。我々の実人生から生み出されたものが、彼の哲学と向き合うとき、それが肯定的なものであるか否定的なものであるかにかかわらず、初めて、我々は彼の「生の哲学」のはかり知れない価値を見出せるのだと、そしてそれは「解釈」ではなく「経験」なのだと、今の私は思っている。

スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

ワタシも同感ですね。

この当時に出版されたニーチェの本は、翻訳が誤っているのか、解釈の仕方が違うのか、違和感を感じておりました。
戦後のフランスのコミュニストの解釈も嫌いですが、あまりこの手の本が売れるといかがなものかなと思っておりました。

個人的には、西尾幹二先生の『ニーチェとの対話』の解釈が一番気に入っております。

また、文学的側面から捉えた村井則夫先生の『ニーチェ ツァラトゥストラの謎』も興味深いですね。

個人的には、ニーチェは哲学者というよりは、思想家なのではないかと思います。

kappamama | URL | 2012-01-04(Wed)02:25 [編集]


Re:kappamamaさん

kappamamaさん、こんにちは。

『ニーチェとの対話』は、ずっと以前に、読んだ記憶があります。
ただ、遊びにいった友人の書棚にこの本をみつけ、「ちょっと読ませて」と読みはじめ、夜になり、友人が寝てしまった後にも読み続け、明け方近くに読み終えた、というような読み方をしたためか、その内容についてほとんど記憶にありません(笑)
夢中になって読んでしまったということは、それ相応の面白さがあったことは確かなのでしょうから、こうして思い出させていただいた機会に、読み直すのも悪くはありませんね。

何をもって哲学者と、あるいは思想家と呼ぶのか、というのはムズカシイ問題ですが、ニーチェは、カントやヘーゲルのような「哲学者」ではないな、とは私も思います。確かに、思想家、としたほうがしっくりくる気もしますね。あるいは、詩人、とか。

コメントありがとうございました。

静磨 | URL | 2012-01-04(Wed)21:19 [編集]


はじめまして。
ニーチェを『哲学者』と呼ぶのか「思想家」と呼ぶのかはどちらでもいいのかな、と。

ただ自己啓発書のような読み方をするのはちょっと苦笑せざるをえません。

ニーチェの言いたかったことの一つは「誰かに教わった価値観じゃなく、自分の頭で価値観を考えろ」ということだとお思います。
(『反時代的考察』の「ダーフィット・シュトラウス」を読むとその辺のイライラがよく現れていますね)

西尾幹二は名前だけ聞いて未読なのですが、興味を持ちました!

有沢翔治 | URL | 2012-10-29(Mon)13:22 [編集]


Re: 有沢翔治 さん

 有沢翔治 さん、はじめまして、こんにちは。

 そうですね。ニーチェは、「けんか腰」といっては大袈裟ですが、挑むような気持ちで読むべきだと、私的には思っております。少なくとも、「学ぶ」ものではないのではないか、と。

 西尾幹二は、私もたくさん読んでいるわけではありませんが、若い頃のニーチェについて書かれた、『ニーチェ』という本が、面白かったですよ。考え方に、ちょっとクセのある人物のようですが(笑)

 コメントありがとうございました。
 また、お気軽にどうぞ。

静磨 | URL | 2012-10-30(Tue)19:26 [編集]