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『わが闘争』その3

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
(1973/10)
アドルフ・ヒトラー

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ヒトラー式」宣伝術について

 第一巻の第六章は「戦時宣伝」と題され、プロパガンダというものの実際について、語られる。ヒトラーの悪魔的天才が語られるとき、彼のこの分野での才能について、触れられないということはない。この章は、他の章と比べて分量的にはとても小さいのだが、その内容は簡潔、明確であり、さすが、と思わされる。しかもそれが実践され絶大なる効果を証明した、となれば、嫌でも注目せざるを得ない。本当は第一巻を全て読み終えてから、何か書こうと思っていたのだけれど、この章についてだけで、少し書いてみることにした。

 第一次世界大戦におけるドイツの戦時宣伝に、ヒトラーは苦言を呈する。それは、ようするに全然だめだったのだといい、敵国、特にイギリスの戦時宣伝を絶賛する(天才的、という言葉さえ使って)。もうほとんど、この宣伝の差によって、ドイツは敗北したのだといいたげな論調が、ずっと続いていく。

 ドイツの何がだめだったのかというと、もう根本的になってなかった、ということらしい。即ち、宣伝というものは手段か目的か、といえば勿論手段なのであり、だとすれば当然それは目的にかなう形でなくてはならないのだが、ドイツではそのことすら理解されていなかった、と、彼は嘆いてみせる。では、どうすればよかったのか。順を追って、彼の「戦時宣伝論」をみてみよう。

 まずはその、「目的」とは何か、といえば、「ドイツ民族は、人間的存在のための闘争を戦った」のだから、「その闘争を援助することが、戦時宣伝の目的であったはず」だという。そしてその宣伝は、誰に対して行われるべきか、というと、彼は、「学識あるインテリゲンツィア」に対してではなく、

 「宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである!」

 と、改行し、ビックリマークまでつけて断言する(多分原文もそうなっているんじゃないかと見当をつけて書いています)。知識階級の人、あるいはそれを自称する人々には「学術的教化」というものがあり、宣伝は不用だという。第三章において、政治には大衆の支持が不可欠であることを力説していた彼としては、これは当然すぎることだろう。

 それが大衆に向けられるべきものである以上、その知的水準は、大衆のなかの最低級のものが理解できる程度に合わせるようにし、ことに戦争貫徹を目的とする宣伝の場合には、高い知性を前提とするものは可能な限り避け、知性よりはむしろ大衆の感情に強く訴えることが考慮されるべきで、この点において宣伝というものは評価されるのであり、「二、三の学者や美学青年を満足させたかどうかではない」のだ、そうだ。

 で、技術的には、大衆というものは「受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」ものなので、要点をうんと絞ったスローガンのようなものを、継続的に宣伝する必要がある、という。

 そしてその内容は、全ての問題に対し、「原則的に主観的一方的な態度」が必要だとする。これはつまり、戦争の責任は自国だけにあるのではない、というのではなく、全ての戦争責任は敵国にあるのだ、というべきだ、ということだ。ヒトラーはいう。

 「ある新しい石けんを吹聴しようとしているポスターについて、そのさいまた他の石けんも「良質」であると書いたなら、人々はなんというだろう?」

 そして民衆というものは、「冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決めるという女性的性質を持ち、女性的な態度をとる」ものとし、よって「最も簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょくおぼえさせることができる」のだ、という結論を、ヒトラーはひきだす。

 ヒトラーの、この大衆というものへの理解と、それに基づいた方法論が、全く正しかったということは、歴史が証明する。確かに、彼は天才的な政治家、あるいは民衆煽動者だった、ということだろう。だがこのヒトラーの手法は、我々にとって実はとてもなじみ深いものだとはいえないだろうか。

 「女性の時代」とかなんとか耳障りのいいことをいって、まさしく女性をターゲットにして、シンプルで理解しやすい表現の、しかし具体性よりは感覚的イメージの向上を狙ったキャッチコピーで、宣伝というよりは喧伝といったほうがいいような、そんな商品コマーシャルは、それこそ世にあふれており、そして我々はそれを当り前のものとして何の疑いもなく受け入れている。

 だがそれは、我々が「ヒトラー式」の宣伝の効果に、あっさりと左右されている、ということを意味する。勿論、それが商業広告の範疇に収まっているぶんには、大した害はないだろう。あったとしてもせいぜい、ニセモノや粗悪品を掴まされるか、最悪でも、詐欺にひっかかるぐらいのものだ。しかしその方法が、たとえば報道に応用されたとしたらどうだろうか。

 実際現代のマスメディアというものは、企業のスポンサードに大きく依存しており、それはテレビやラジオのみならず、新しいメディアであるインターネットも例外でないことはいうまでもない。それは即ち、企業の思惑と、メディアを利用した報道というものが、極めて近しい関係にすでにある、ということを意味する。ならば、企業の「ヒトラー式」が、報道の場に持ち込まれることは充分あり得るし、それを防ぐものは、ただ報道関係者の良心があるばかりだ、ということになる。

 そうした事態になれば、まさに現代の企業が商品を売る、それと同じ方法で、報道によって世論は操作されることになる。我々が、企業のコマーシャルにほとんど疑いらしい疑いを抱かぬままに、商品を選択し購入する、まさにそれと同じように、ある恣意的に形作られた世論の担い手になってしまうのだ。

 だとするならば、ときの政府なり、政権与党なりが、同じく「ヒトラー式」を使用したとしたならば、やはり我々は彼らの思惑通りの国民になってしまう、ということではないか。まるで、ナチス政権下のドイツ国民のように。そしてこの場合も、これを防ぎ得るのはただ、為政者の良心だけだ。

 勿論我々は、独裁政治や偏向報道というものの危険性を、当時のドイツ人よりは、歴史から学ぶ機会を与えられている訳で、少なくとも企業のコマーシャルと同様にそれらから影響を受けてしまう程には、無批判ではない(と信じたい)。特に我々日本人は、悪くいえば盲目的に民主主義というものを信奉しているので、それに反するものを盲目的に拒絶する、という逆説的な防御力をもっている。

 あるいは、ヒトラーがこの章のなかでいう「ドイツ人の客観性気違い」というものが、やはり日本人にも一般にみられる、というもの、この場合よいことなのかもしれない。これは、自国の置かれている状況を、ただ自国の利害の観点だけからではなく、他国との関係の内に「客観的」に観て、悪くいえば他国の顔色をうかがいつつ、自国の方針を考える、といったところのものだ。

 これは勿論、戦時には足枷にしかならない。ヒトラーのいう通り、戦争とは純粋な生存競争でしかないものだからだ。しかしこれは、戦争を誘発する行為の抑制、そして自分勝手な国益のみを(つまり権力者の利益のみを)追求する独裁政治の発生の抑制にも、大きな役割を果たし得る。日本人の自信のなさにも、それなりによい点はあるのだ。

 だから、政治的プロパガンダが、例え「ヒトラー式」に行われたとしても、第二次世界大戦前のドイツのようには、もしかしたらこの日本では簡単にはいかないのかもしれない。しかし前述したように、「ヒトラー式」の企業コマーシャルに、我々が見事に乗せられつつ、日々消費活動を行っている、ということもまた厳然たる事実なのだ。

 ここで問題にされるべきは、やはり我々大衆自身だろう。どんな形であれ、ヒトラーの透徹した大衆観察眼と、その結果生まれた「ヒトラー式」プロパガンダが、いまだに通用する、ということは、他ならぬ、我々大衆が、本質的には百年前と変わっていない、ということだからだ。

 つまり、あれほどの戦渦、あれほどの惨劇、あれほどの愚かしさを知りながら、我々はいまだに、ヒトラーの言を借りるならば、受容能力は限られ、理解力は小さく、忘却力は大きく、感情的に考え方を決め、鈍感で、鈍重な「大衆」であることから、抜け出せていないのだ。このことこそが、いまだに世界中で独裁者諸氏が現役で活躍している現状を、終わらせることができずにいる原因だし、さらには、将来の独裁政権の樹立を否定しきれないことの原因でもあると、私は思う。

 独裁政権を打ち立てるような連中は、実際頭はいいのだろう。だからこそ、我々は多くを学ぶ必要があるといえる。よい読書は、そのための小さからざる一助となり得ると、私は信じる。そしてこんな過疎ブログにも、皆さんに本を紹介させていただくことぐらいに限られるとしても、何らかの役割はあるんじゃないかと、私は思っています。自信はないけれど。

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わが闘争 上 民族主義的世界観 5/7 ~大衆のコントロール

宣伝はただ大衆に対してのみ 宣伝は誰に向けるべきか?学識あるインテリゲンツィアに対してか、あるいは教養の低い大衆に対してか? 宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである! 

投資一族のブログ 2013-04-23 (Tue) 21:10