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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『ジョニーは戦場へ行った』 その1

  この本を初めて読んだのは、1993年のことだから、なんと、もう18年も前のことになろうとしている。この年の夏、8月初頭から末までの約ひと月の間、私はオートバイで北海道を旅した。初めての北海道、初めてのロングツーリングだった。

 愛車は、スズキのGSX1100S。富士山の見える街から、東名高速、首都高速、東北自動車道をえっちらおっちら走っていき、ようやく青森港に着いたものの、何でもねぶた祭の影響とかで函館行きのカーフェリーは大混雑、朝一番に窓口に並んだのに、ようやく取れた乗船券は、夜の7時過ぎに出港するその日の最終便のものだった。

 青森に足止めされた私は、仕方なく竜飛岬までひと走りし、また青森市街に帰ってきたのだが、それでも半日しか時間つぶしができなかった。そこで本でも読んでいようと、小さな本屋に入り、ふと眼についたのがこの本だった、という訳だ。で、旅をしながら読み進めていった。たしか、2回読んだ。そしてどうした訳かこの本以降に、多分私の人生の中で最もたくさんの本を読むことになる数年間がはじまった。

 ということで、18年も前のことなのに、買った状況や、読んでいたときのことなどを、とてもよく覚えている本なのだ。今回久々に読書の習慣を再開しようと決め、ブログなども始めてみようというこの機会に、まずこの本を選んだのは、これがとても思い出深い本だから、という部分も少なからずある訳だ。内容よりも、読んでいた頃の思い出が先に頭に浮かぶ本は、私にとっては多分この本だけだろう。


ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)
(1971/08)
ドルトン・トランボ

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 戦場で四肢を失う、あるいは視力を、あるいは聴力を、鼻を、口を失う、ということ。それは多分、悲しいことに特に珍しいことではないのだろう。しかしその全てを、一度に失ってしまったとしたら、どうだろう。考えただけでもおそろしい事態だ。
 
 主体、というものは、客体なくしては本来存立し得ないものであり、それはつまり、自意識、というものは、自身と客体との接点にしか存立し得ないということ、なのだと思う。それなのに、我々の主人公は、その客体を知覚し受動する器官のほとんど全て、さらには、客体へと働きかける手段のほとんど全てを、一気に失ってしまったのだ。

 あるのはただ、絶望的に閉じ込められた自意識、そればかりだ。彼がおかれた絶望的な状況とは、我々の自我というものが本来あるべき形で「健康に」存立するためには、絶対になくてはならないものが決定的に欠けている状態なのであり、我々が彼の物語を読んで感じる恐怖とは、即ち、発狂することへの恐怖に他ならないのだろう。

 そう、もし自分がそんなことになったら、と、読者は考える。もし自分が、彼と同じ悲劇に襲われたなら、きっとまともではいられないだろう。すぐに発狂してしまうだろう。まともでいられるはずがない、と、普通の想像力の持ち主ならば思うだろう。人間の精神は、とてもそんな牢獄には耐えられないだろうと。

 発狂への恐怖。それはもしかしたら、死への恐怖にまさるのかもしれない。少なくとも彼の場合はそういえる。なぜならば、彼の悲劇をことさらに残酷なものにしているもっとも大きな要因は、自殺することができない、ということだからだ。

 この悲劇を、自らの意思で終わらせる自由すら、彼からは奪われてしまった。そう、彼にとっては自殺もまたひとつの自由だ。歩くことや、視ることと同じく、彼の手からは失われた多くの自由の内のひとつだ。発狂という最悪の事態とは即ち、彼に残された最後のもの、精神というもの、自意識というもの、つまり身体はただの肉の塊になってしまっていてもなお、彼をひとりの人間だと証明しうる最後のもの、そして、彼が自由にあやつることができる最後のものが、ついに奪われてしまうということなのだ。

 この小説は、反戦小説の古典、ということになっている。歴史的にも、どうやら、戦時の発禁など、反戦小説にふさわしい扱いを実際に受けてきたらしいし、また、本文中にも反戦のメッセージが直接的に語られている訳だから、その見方に間違いはないのだろう。

 しかしこの小説を読んでいて感じるのは、発狂への恐怖という、実に感覚的な嫌悪感だ。読者はこの恐怖から逃れようと、主人公と共にもがき苦しみながら、ページを繰っていく。絶望的な努力を強いられる。途中、多分我々は一度ならず、主人公とともに正気を失いかける。

 終盤、我々はささやかな希望を見出し、そして、決定的に裏切られる。全ては失われる。読後に残されるもの、それもまた嫌悪感なのだ。その嫌悪感を、本文中の反戦のメッセージに導かれるままに戦争へ向けることは容易だろう。

 だが、そうやって感覚的、感情的に「戦争反対」を叫ぶばかりだとしたら、この小説もなにやらグロテスクなテレビドラマ以上の何かではなくなってしまう。なぜなら、感覚的、感情的な戦争反対論ほど、正当ではあるが、しかし戦争回避の役に立たないものはないからだ。

 それは歴史が証明する。戦争は古くから忌み嫌われてきたはずなのだが、しかし戦争は、人類の歴史と同じくらい古く、そして人類の歴史と同じくらい長く続いているのだから。

 だが我々が、この小説はそこに留まらないある普遍性をもつと信じるならば、我々はこの嫌悪感を、もう少し正確に捉えてみるべきなのだろう。

 調子に乗って、長々と書いてしまった。ここらで、「次回に続く」にします。お付き合いくださってありがとうございます。




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