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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 19



 清水港湾地区・その1 清水湊 


 ホンダ・スーパーカブ110購入からはじまった早朝お散歩ツーリング。これまでは主に旧東海道を辿りつつ、その周辺の史跡をめぐるような具合で進めてきたが、静岡市の自宅から、西へは旧掛川宿、東へは旧箱根宿にまで至るに及び、いよいよ、その距離は「お散歩ツーリング」の範疇には収まらなくなってきた。しかもその上、その外的条件もまた悪化の一途を辿りつつある。

 生来の頭の悪さの故とおぼしき強烈な遅筆のために、この記事の元ネタとなるお散歩をした時点で実はまだ11月初旬なのであるが、女房子供が起きて活動を始める前の早朝にしかバイクで遊ぶ時間がとれない悲しい家長たる私にとっては、もうすでに、気温の低下と日の出の時間の遅れのために、距離を走るツーリングにはどうにも出掛けられなくなってしまっていたのだ。

 そこで、しばらくは旧東海道に拘らない形で、史跡めぐりなどをしてみよう、ということにした。街道、というものは無論歴史の動きに大きな影響を与えてきたものであり、結果として街道の周囲に史跡が多数見出されるのは道理なのであるが、これまたいうまでもなく、歴史的事件の全てが所謂旧街道とその沿線で起こったという訳ではないし、街道から外れた場所に史跡が見出されない道理もないのだ。

 ただ、本来が道というものへの興味から始まったこのお散歩であるから、これまでに街道に沿って「線」を伸ばす方向に進めてきたものを元に、それを「面」の方向に広めていく、あるいは、歴史的に掘り下げていくような形にしようと思う。

 ということでとりあえず、以前に行った江尻宿周辺から行ってみることにした。




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 午前6時、JR清水駅前。まだ暗い。私は幼少期、旧清水市(現静岡市清水区)に住んでいた。だからその頃、どこか遠くへ、例えば横浜の伯母さんのところなどに出掛けるときには、ここから「国鉄」の急行に乗ったりなどした訳だ。駅の様子は当時とは幾分か変わりつつあるけれども、この小さな田舎の駅舎を見ると、あの出発時のわくわく感などが思い出され、やはり、懐かしい。




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 清水銀座商店街入り口。これがつまり、清水の街の繁華街の中心である。典型的な、田舎の寂れた商店街だが、清水に住んでいた幼少期の私にとっては、ときどき連れて行ってもらえる賑やかで楽しい場所であり、何でも売っている「都会」であった。実際その頃には、今よりも栄えていたのも確かなのだろう。そしてこの清水銀座商店街は、かつての東海道の江尻宿があった場所である。その江尻の地名は現在もまだ残っているのであるが、その隣には入江、という地名もある。この入江は、かつて入江氏という武士が本拠地とした場所であった。

 以前、梶原景時最期の地について記事にした。鎌倉から京に逃れんとした梶原一族が、私の実家のすぐ近所で、待ち伏せにあって自害した、というような記事であったが、その梶原一族を待ち伏せした御家人というのが、他でもない、この入江氏であった。その記事のなかで、私はこの入江氏について、田舎の野武士みたいな連中だ、みたいなことを、よく知りもせずに書いてしまったが、実は、けっこうな有力武士であったことを、その後に知った。

 よく考えてもみれば、鎌倉時代初期にこうしてその名がすでにあり、そしてその本拠地の地名としてその名が現在にまで残っているのであるから、得体の知れない野武士なんかである訳はないのである。その系譜だとか歴史だとかについては割愛するが、最近読んだ『三つの東海道』(湯之上隆著)という本によると、『保元物語』にはすでに、保元の乱(1156年)の際に源義朝の隋兵としてその名が記されているようである。もう、文句のつけようもない、立派な御家人である。

 ではなぜ入江氏が、こんな片田舎にありながら有力武士たり得たのかというと、その本拠地が「江尻津」であったから、と考えるのは自然であろう。「津」とは船着き場、港の意であるから、つまり江尻に港があり、そこを支配することによって力を得ていた、と簡単にいうとそういう訳だ。

 湾の最奥部、即ち富士市の田子ノ浦あたりから、外洋との境を成す御前崎の突起に至るまで、駿河湾の西岸は、だいたい真っすぐで起伏の少ない海岸線が続いているのだが、その中程で、出し抜けにひょっこり飛び出しているのが三保半島である。この三保半島に抱かれているような、折戸湾と呼ばれる狭い海域に、一本の川が流れ出す。その川が、このブログでもよく登場する、ちびまる子ちゃんで有名(?)な巴川であり、その河口にあったのが、江尻津である。

 上記『三つの東海道』によると、江尻津がひらかれた時期はよくわかっていないらしいが、西暦1000年ぐらいにはすでに入江氏がこの辺りを支配していたことから、まあそれに近い頃だろう、ということだ。この江尻津が、その後の江尻湊、及び清水湊の発端となった訳で、その賑わいは、結果として陸路の東海道の道筋にも変化を与えることとなった。

 以前江尻宿に来たときの記事にも書いた通り、東海道は、興津宿から、元々はもっと内陸部を通って府中宿に繋がっていた。付言するならば、その途中にあったのが、古代の「駅」であった瀬名川、即ち梶原景時が討たれた場所、である。つまり鎌倉時代には、東海道は静岡市のもっと山に近いあたりを通っていたということだ。その東海道を、五街道整備の際に、徳川幕府が江尻宿を設けて海寄りを通るようにした。湊町である江尻に賑わいがあったからである。幕府は42 軒の廻船問屋に営業権を与え、江戸と大坂間の海上輸送の中継点として、清水湊はさらに発展することとなった。
 
 清水駅の前で、北側の興津方面から伸びてきた国道一号線は直角に西に曲がり、そのまま、清水駅に背を向けて伸びていく。しかしそちらへは曲がらず、「さつき通り」という道(国道149号線及び県道75号線)を南へ真っすぐに進めば、清水湊のあったあたりに辿り着く。




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 これがその「さつき通り」。昔はここに路面電車が走っていた。1974年の「七夕豪雨」と呼ばれる記録的な大雨の洪水被害にあって、残念ながら廃線となったため、1971年生まれの私はその電車のことを覚えていないが、聞けば母親に連れられて乗ったことがあるそうだ。ただ線路だけはその後もしばらく残されてあり、私も子供の頃に見たことを覚えている。で、その路面電車路線の南端があった辺りで、道は丁字路にぶつかるのだが、その角にあるのが、「船宿末廣」である。





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 ここを営んでいたのが、他でもない、「海道一の大親分」清水次郎長である。開業は明治十九年(1886年)というから、やくざ者として名を馳せ、数々の逸話を残した(そのほとんどはフィクションらいしいが)時代の後の話、ということになろう。では、この有名人にゆかりの場所を幾つか、回ってみよう。




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 「末廣」前の交差点。写真右手に行けば清水駅。写真奥は、港橋という、巴川に架かる橋。




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 橋の反対、海の方向に伸びるのが、エスパルス通り。J2陥落の清水エスパルス……かつての「サッカー王国」もカタナシである。




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 橋の辺りから、巴川の景色。昭和っぽい、寂れた雰囲気が、なかなか。巴川沿いの、細い路地を辿ると、




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 「壮士墓」。例の「静岡県の歴史散歩」によると、江戸幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)は、明治元年(1868年)、元海軍総裁榎本式揚の指揮のもと、品川から脱出、蝦夷地を目指すも暴風雨に遭遇して漂流、清水港に避難した。しかし官軍の攻撃にあい乗務員は殺され、その遺体は港を漂っていたが、地元民は官軍を怖れてそれを放置した。それを見かねて手下に命じて遺体を回収、ここに葬ったのが、他でもない、次郎長親分であった。

 この出来事は、ヤクザ者だった次郎長が改心し、郷土のために尽くすようになるきっかけともなった。「末廣」開業もこの後のことであるが、他にも、富士の裾野の開墾だとか、清水港の整備だとかにも尽力し、「末廣」の一室には英語塾まで開いていたらしい。まさしく地元の名士たるに相応しい活躍ぶりである。




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 先ほどの「末廣」の交差点まで戻って、今度は港橋で巴川を渡り、少し進んで左折すれば、「次郎長商店街」と呼ばれる通りに出る。




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 この通りにあるのが、「次郎長生家」である。次郎長愛用の品々等が保存、展示されているらしいが、またしても朝早すぎて見られず。




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 そしてこちらが、次郎長終焉の地、「梅蔭寺」。次郎長の墓のあるお寺。「次郎長生家」の近所にある。

 そもそも、江尻が「津」として存立し得たのは、三保半島という自然の防波堤ともいうべきものが、巴川の河口域を守ってくれているという、恵まれた地理的条件があってのことだ、といえるだろう。では、次はその三保半島に行ってみることにしよう、というところで、長くなったので、次回に続く。


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