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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 10


 旧東海道 大井川から掛川宿
 その1・大井川西岸、金谷宿、菊川宿(間の宿)



 とある土曜日。妻が何やら友人とどこぞに遊びに行きたいとやらで、私に子供達をまかせて一日お出掛け。そのかわり、日曜日は一人で遊びに行っていいよ、とのこと。ずるい夫は土曜は実家にいって子供等をじいさんばあさんに押し付けてゴロゴロ過ごし、日曜はまたスーパーカブで史跡めぐり、ということにした。

 しかし日曜日の天気予報は曇りで午後から雨。しかも、月曜の仕事は群馬県行きということで、夕方から睡眠を取り、真夜中前には出勤しなければならぬ。ということで、またしても早朝ツーリングとなりました。三時半起床、四時出発。これでは仕事の日とかわらないではないか。ただ、いつもの早朝ツーリングのように八時頃までに急いで帰って来る必要はない。全ては天候と、私の体力次第である。

 前回は、大井川東岸、東海道が川に阻まれて途切れてしまうところまで走った。よってそこまでは、単なる移動区間と割り切って、幹線路(主に旧国道1号である県道381号線)を一気に走る。脇目もふらずに走る。で、スタート地点に到着。




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 大井川西岸。ちょっと急ぎすぎて、まだ暗い(笑)。ここがスタート地点。なぜなら……




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 反対側から撮影。奥に続くのが、旧東海道である。道は再び、ここから西へと伸びていくのだ。




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 少し進むと、「金谷宿川越し場跡」。島田側には「大井川川越遺跡」があったが、当然、こちら側にも川越人夫がいた訳だ。




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 「義人 仲田源蔵」の像。解説文によると、明治維新の後、新政府によって大井川の川越制度が廃止され、失業した島田、金谷あわせて1200名の川越人夫の窮状を救うために命がけで尽くしたひと、とのこと。そればかりではなく、金谷方の人足百名と共に牧ノ原の大茶園開拓の基礎を築き、さらには大井川の架橋事業にも尽力、まさに義人と呼ぶに相応しい人のようである。




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 しばらく進むと、道は国道473号線となり、島田市金谷町、旧榛原郡金谷町の中心部へ。旧東海道24番目の宿場、金谷宿があった場所である。




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 本陣跡。




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 JR金谷駅。




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 駅の近くにある一里塚跡。ここから線路をくぐって、国道を離れる。




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 これが旧東海道。坂を登っていくと、




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 「東海道金谷坂」上り口。




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 こんな石畳の道が430メートル。平成3年に復元。けっこうな上り坂で、しかも円い石畳なので歩きづらいが、往時においては旅人の歩きやすさのための石畳だったのだろう。平坦な道に慣れた現代人であり、そのうえ運動不足な私にとっては、足腰をガタガタにさせてくれる拷問のような道である。


 

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 すっかり息があがった頃に辿り着いたのが、「すべらず地蔵」。島田市の公式アナウンスによると、「『滑らない山石を敷いた石畳』に因んで」すべらず地蔵と呼ばれているらしいが、その呼び名から、シーズンになると合格祈願にやってくる受験生で賑わうそうな。ただ実際にここまで歩いてくるには、滑らないように気をつける必要がある。歩きにくいんだもの。

 430メートルを往復した頃には、我が足腰は酷いことになってしまったが、なんとかカブに跨がり、茶畑のなかの農道のような道を辿って、先へ。




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 国指定史跡「諏訪原城跡」。例の『静岡県の歴史散歩』によると、天正元年(1573年)に武田勝頼が築城、標高218メートルの台地の上に築かれた平山城で、武田流城郭の典型例として名高い、とのこと。しかし1575年の7月から8月にかけて、徳川家康の軍勢に攻められて落城、その後徳川の配下になるも、1590年頃に役目を終え、廃城となった。




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 城跡、といっても空堀の跡しか残っていない。が、その空堀の跡が貴重らしい。




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 本丸跡。




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 本丸跡から、金谷、島田方面を望む。




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 このあたりは、堀の形がわかりやすい。

 この城跡、なかなか広くて、駐車場から案内看板どおりに一周まわるとけっこうな距離になる。我が虚弱なる下半身は限界に近づく。




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 城跡内に、神社。ここに諏訪大明神を祀ったことから、諏訪原城の名で呼ばれたとのこと。




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 「諏訪原城跡」の先で、東海道は再び石畳に。「菊川坂石畳」下り口。写真ではわかりにくいが、かなりの坂道。もうかんべんしてください、ということで、車道へ迂回。その車道も、一気に谷へ降りていくような坂道であった。




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 坂の下にある、「菊川坂」の登り口。ここをすぎれば。菊川である。




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 「菊川宿」のあった辺り。菊川宿ってなんだよ、金谷宿の次は日坂宿だろう、といわれるのも当然。菊川宿は「間(あい)の宿」といって、難所が続くところや次の宿場が遠いところに、旅人の休息のために宿場に準ずる場所として指定された村の内のひとつ、とのこと。ただ、「間の宿」に旅人が宿泊することは厳禁されていたそうで、菊川宿でも、大井川が「川留(かわどめ)」になった場合ですら、金谷宿の許可がない限りは宿泊させてはいけなかったらしい。

 そう、難所は大井川だけでなく、「続く」のである。金谷峠、ではない。あれは、ただの山。その内の往復860メートルで私の足腰がガタガタになったとしても、難所ではない。難所は、この菊川宿の先、「小夜の中山」である。が、そちらのことはまた次回。あ、次回は少し、「読書ブログ」らしくなる、予定です。


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