FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『わが闘争』その1

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
(1973/10)
アドルフ・ヒトラー

商品詳細を見る


歴史に学ぶということ

 数年前、この本を最初に書店の棚にみつけたとき、今この現代の日本において、この本を読む意義というものが果たしてあるものなのか、率直にいってそんな疑問を抱いた。有名で優れた書物が、政治的なプロパガンダに利用される、ということはよくあることだ。しかし、そもそも始めからプロパガンダのために書かれ、しかもそれが歴史というものにこれほどに影響を与えた、という例は、そうは見出されない。

 しかしそれは、反対にいうならば極めて限定的な目的のために特化された書物だ、ということをも意味する。そう、どんなに優れたものでも専門書というものが門外漢には全く役立たないものであるように、ヴェルサイユ体制から第二次世界大戦の時代のドイツ語圏に暮らしている訳ではない我々にとって、この本は何かの役に立つのだろうか、というのがつまり、私の疑問だった。

 だが、読んでみる価値があるのかないのか、それをはっきりさせるには、無論読んでみるという以外に方法はない。そしてあの輝かしい、多分近代以降に限っていうならば、間違いなく世界一優れた精神史をもつ人々の国が、どうしてよりによって最悪の独裁者に国政をまかせるに至ったのか、そのことについては前々から興味があった。この本がその鍵のひとつを握るのは、多分確かなのだろう。私は厚めの文庫本二分冊のこの本を、レジに持っていった。

 例えば、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺。一体どうしてこんなことが可能だったのか、それを知るためには、ドイツ人が、とか、ユダヤ人が、とか、そういう文脈のなかで考えるべきではないと私は思っている。これは原爆投下だとか、南京虐殺だとかも同じことだが、少なくとも「歴史に学ぶ」という姿勢に自らを置こうというならば、「人間が人間に対して」行った行為、としてみるべきではないだろうか。

 あるひとつの歴史的事件を、ある特定の時代背景の影響化における、ある特定の国民によるものとして、一回的で限定的な出来事と捉えることも、勿論大切なことだ。それは歴史というものの流れを、でき得る限りありのままに正確に掴もうというときには、決して忘れてはならない姿勢だといえる。

 全ての出来事とは、その時、その場所でしか起こり得ないものとして起こったのであり、そしてその出来事の連なりこそが歴史というものだからだ。あらかじめ用意された抽象概念に、出来事を当て嵌め、分類してしまうことは、歴史を取り扱う正しい態度だとは私は思わない。同じ市民革命でもフランス革命はフィリピン革命とは違うし、同じ戦争でも、ポエニ戦争はベトナム戦争とは全く違う原因や性質をもっているのだから。

 しかしその一方においては、我々がフォークランド紛争の当事者でないからといって、あらゆる戦争や、戦争の可能性と無関係だ、ということにはならない。歴史から教訓を学ぼうという者は、今度は逆に個別の出来事をできる限り普遍化する必要がある。「人間が人間を」というのはそういうことなのだが、ナチのホロコーストのような歴史的犯罪については、特にそうだといえるだろう。それはドイツ史ではなく、人類史に刻まれた傷なのであり、我々はその傷を負った歴史の積み重ねの上に生きている。ドイツ人も、日本人も、アメリカ人も、イスラエル人も、誰でもが、だ。

 そう考えなければ、つまりそれを他人事だとして何も学ぼうとしないならば、我々はまたいつか大量虐殺をどこかで目撃することになるだろうし、核兵器の使用は正当化され続けるだろうし、自国の利益のために他国を侵略するだろう。あるいは、民主国家がひとりの独裁者の手に堕ちることもあるだろう。やはり、『わが闘争』は、今日的意味をもつものとして、我々の誰もが知っておくべき本だといえるのではないか。

 現在、国際的にみて残念ながら低調にあるといわざるを得ない我が国だが、最近の中東各国の情勢をみると、産油国の政変が、近い将来に、資源のない日本の産業や経済にとどめをさすことになる可能性は充分あるだろう。あるいはまた他の原因によるのかもしれないが、日本の国力がこの先さらに低下してしまう、ということが実際に起こったとき、さて、我々はどうするだろうか。

 一度は経済大国の名を世界に轟かせた我が国である、きっと、そうした凋落に、我々の自尊心は大いに傷つけられることだろう。多くの企業は海外資本に買収されるだろうし、インフレや高い失業率が庶民の生活を否応なく締め付ける。税収が激減して火の車の国家財政のもと、福祉、教育の水準は下がり、治安は悪化、世界は日本を破綻国家として評価する。

 我々にとって、これほどの屈辱があろうか。こんな事態に、我々は耐えられるだろうか。
いや、耐えられないだろう。雪辱に燃える国民感情が沸きあがるだろう。日本人は、こんな地位に甘んじていられるような「劣等民族」ではないと、誰もがそう思うだろう。「Japan as No.1」、そんな言葉さえ、かつては海の向こうから聞こえてきたことがあったのだ。

 そんなときに、ひとりの男が登場する。庶民階級の出身だという彼は、我々とともに歩み、我々とともに苦しんできた同志だ。彼は叫ぶ。「さあ、今こそ日本人としての誇りを取り戻そう。我々はかつて世界の頂点に立ったのであり、そして今なお、世界の頂点にあることが相応しい民族なのだ。」。国の危機に際しては、必ず、こういう人物があらわれるだろう。なぜなら、皆が潜在的に、そういう人物の登場を待ち望むようになるからだ。

 ならば、彼の声に耳を傾けない者があるだろうか。そして実際に彼が、その強力なリーダーシップをもって人々を導き、傾き泥にまみれたこの国を立ち上がらせ、かつての栄光ある「先進国」の座を目差して再び歩き出させることに成功したならば、我々は、喜んで彼の言葉に従おうとしないだろうか。そしてもし仮に、彼の対外的な部分での方法が、どうも倫理的にみて問題がありそうだな、と思ったとしても、勢いづいた経済成長や国力増強に水を差すことになるよりはと、少々のことなら眼をつぶろうとはしないだろうか。

 こうしたことは実際に起こり得ると、私は思う。いや、確かに実際に起こったのだ、あの屈辱的なヴェルサイユ体制の軛に、もがき苦しんでいたドイツで。ならば、これからの日本で同じことは起こらないと、一体誰がいえるだろうか。あの当時のドイツ人と、今日の日本人。総体として一体どちらが、世界情勢や自国の社会情勢を批判的客観的に、評価、判断する力をもっているのか、そんなことは誰にもわからないのだから。

 ということで、私はこの『わが闘争』を読み始めた。何回かに分けて、記事にしていきたいと思っている。

スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する