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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 5


 鎌倉街道(徒歩0分)その2、 梶原一族供養


 地元の山であるし、その名の由来のことなども小学校で習ったし、私自身「義経好き」な小学生だったのだから、梶原山が梶原景時最期の地であることは子供の頃から知っていた。遠足で登ったこともあった。

 だがやはり、学校の図書室で子供向けの義経の伝記を読んですっかり義経ファンになってしまうような単純な子供であった私であるから、「悪役」の景時はあくまでも「悪役」だと思っており、よって、あの「卑劣漢」がよりによって自分の生活する町で自害したことを、苦々しく感じていた。

 無論今となっては、そんな感情は少しもない。むしろ、自分の実家の前の道が「旧鎌倉街道」だと知るに及び、そこで起こったひとつの歴史的事件と、その主要人物であるところの梶原景時に、大いなる興味を抱き、そして、なにやら親近の情さえうまれた。相変わらず、単純であることは子供の頃から変わらないようである。

 「矢射タム橋」からカブで走ることほんの数分。相変わらず自宅のアパートからの徒歩圏内に、その梶原山はこんもりと、いかにもありふれた山、という様子で街を見下ろしている。標高は300メートルに満たず。本当に、そこらにある「みかん山」である。その姿も写真に撮ろうとしたのだが、マンションだの高架道路だのが邪魔をして、なかなか山全体がみられる場所がみつけられずに断念。昔は、どこからでもみられたものだが。 

 


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 山の入り口にある、「光鏡院」というお寺。かなり立派なお寺だ。




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 門の脇に大きな看板があり、梶原景時がここに逃れてくるまでのことを、図で説明している。私の前回の記事なんかよりずっとわかりやすい。




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 農道のような、曲がりくねって狭くはあるがちゃんと舗装された山道を登ること数分、駐車場にカブを停め、ここからは歩く。とはいっても5分とかからず山頂である。しかしその5分足らずの山道で息切れするのが私である。情けない話だ。




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 山頂の公園。こんなに綺麗に整備されてからは、初めて来た。キャンプでもしたくなるような公園である。昔は、ただの「山のてっぺん」というだけの場所だったが。




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 景色も良い。清水港から静岡市街地、駿河湾まで一望できる。




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 富士山もみえたっ。私がカメラを持って出掛けると、大概雲に隠れてしまうのだが、この日は何とかみられた。早起きは三文の得、といったところか?




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 これが、梶原景時の慰霊碑と供養塔。辞世の句。


  もののふの かくこ(覚悟)もかかる ときにこそ
  心の知らぬ 名のみお(惜)しけれ 



 京で貴族然とした暮らしをしていた平家に対し、東国の源氏の武将たちは野武士のような連中で、教養もなく、文字を書ける者さえ珍しかったという。そんななかにあって、景時は和歌をたしなむほどの教養があり、しかも武将としても有能で数々の武勲をあげている。天下人の源頼朝が、信頼し重用したということは、やはり、それだけの才覚が景時にはあった、ということなのだろう。

 ならば、その知的で洗練された景時に、周囲の御家人たちが嫉妬して悪者に仕立て上げた、というのはありそうなことである。また、義経を讒言によって陥れた、というのも、平氏を討伐した後、京で朝廷から官職をもらって調子に乗った人気者の義経は、実際に頼朝にとっては警戒すべき人物とみるべきだった、と考えるならばどうだろう。それは讒言、というよりは、当時誰も悪くは言おうとしなかったであろう「英雄」について、その「危険」を頼朝に告げ知らせる、忠臣に相応しい「善き助言」であったというべきではないか。

 『ふるさと瀬名川』によれば、合戦の夜が明けるとすぐ、入江一族は山頂に梶原親子の遺体を発見、その首は街道辻にさらされたという。しかし亡くなったのはそこらの野武士ではない。鎌倉幕府の重鎮ともいえる名高い侍である。その遺体が、首の無いまま放置されているのはあまりにも不憫であると、周囲の里人は自分たちの土地に遺体を埋葬し、弔った。その供養は、なんと八百年を経た現代に至るまで、その個人宅において続けられているそうである。

 『平家物語』は、いうまでもなく我が国の誇るべき古典文学である。私としては「東洋のイリアス」とでも呼びたいくらいである。梶原景時の供養塔は、その物語世界を身近に、そして現実的に感じさせてくれる気がした。津軽半島を旅行したときに、義経寺という、実は義経は平泉で討ち死にせず、ここから北海道にわたった、とされる場所に建てられたお寺を見学したことがある。「判官贔屓」が産んだ希望的な伝説のために、そんなお寺まで建てられてしまう義経の人気ぶりには到底かなわないが、景時だとて、その物語の一端を担った重要人物たるに疑いは無い。その最期の場所がここにこうしてあるということを、我々地元民はもっと誇るべきなのかもしれない。あるいは、せめてこの近所だけでも「景時贔屓」でいいんじゃないだろうか。




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 早朝の人気ない公園全体に、甘い香りがほんのりと。くちなし、か。

 実家の前の、生活道路。30km/hの速度制限のかかる、車のすれ違いにも窮屈なその裏道が、かつて国の東西を結ぶ重要な街道であり、そこにおいて、八百年前に歴史的事件が起こった。まさしく、「道に歴史あり」である。普段何気なく車を走らせている、あの道、その道。何だかどこを走るにも、ただ通過してしまうのがもったいないような、そんな気にもさせられた、ある朝のお散歩ツーリングでした。




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 おまけ。公園に至る山道の脇に、こんなものが。五世紀から七世紀の古墳群? ちょっと調べたところ、特に史跡として整備されている訳でもなく、それどころかまともな発掘調査さえされていないようだが。わが町の歴史、なかなか侮れないぞ(笑)


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