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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 4


 鎌倉街道(徒歩0分)その1、梶原一族最期


 『平家物語』巻第十二、第百十四句、「腰越」。

 そのころ、九郎判官、「鎌倉より討たれるべき」とぞ聞こえける。判官内々のたまいけるは、「弓矢取る身の、親のかたきを討ちつるうえは、何ごとかこれにすぎたる思ひ出あるべきなれども、関より東は源二位殿のおはすれば申すにおよばず。『西国は義経がまま』とこそ思いつるに、これこそ思ひのほかのことなれ」。
   (中略)
 「源二位と兄弟なるうへ、ことに父子の契りをして、浅からず。去年の正月、木曾左馬頭追討せしよりこのかた、度々の合戦をして、平家つひに攻め落とし、四海をすましめ、一天をしづめて、勲功比類なきところに、いかなる子細ありて、源二位、か様にうらみは思ひ給ふらん」と上一人より、下万民にいたるまで、不審をなす。
 これは今年の春、渡辺にて船揃へのありしとき、判官と梶原と逆櫓を「立てう」「立てじ」の論をし、大きに怒られしことを、「梶原本意なきことにして、讒言して、ついに失ひける」とぞ聞こえし。世をしづめ給ひて、鎌倉殿、「今は頼朝をおもひかくる者、奥の秀衡ぞあらん。そのほかおぼえず」とのたまへば、梶原申しけるは、「判官殿もおそろしき人にて御わたらせ給ひ候ふものを。うちとけ給ひては、かなふまじき」よし申しければ、「頼朝もさ思ふなり」とぞのたまいける。さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文下書きて、参らせられけれども、用ゐらざれば、判官力におよばず。

 (新潮日本古典集成『平家物語』下巻)

 
 何やら長々と古典の引用などしましたが、最近バイクのことばかりなので、「読書ブログ」としての体裁を少しでも保とうとした、という訳ではありません。決して。

 主な登場人物が三人。まずは、我等がヒーロー、「判官殿」こと源義経。そしてその兄「源二位」あるいは「鎌倉殿」こと、源頼朝。最後に、ただひとり呼び捨てにされている「梶原」すなわち梶原景時、である。

 引用元が『平家物語』なので、ここで義経を主役扱いするのはちょっとおかしいともいえるが、しかしやはり義経には物語の主役たるに相応しい、何というか「スター性」のごときものがある。ただ日本史というものを俯瞰するとき、そこで重要人物たり得るのはやはり頼朝であろう。義経の勲功は否定すべくもないが、事を成したといい得るのは頼朝である。全ては、頼朝あっての出来事である。

 で、梶原景時はというと、これは、昔から「悪役」ということになっている。しかも、主人公と正々堂々真正面から太刀を合わせるような痛快な敵役、ではなく、上記引用文のごとく、悲劇のヒーロー義経のことを頼朝に悪く言い、ふたりの仲を悪くさせて義経を失脚させ、自分は将軍の側近に収まるという、実に卑劣な憎まれ役である。

 ただ、今回はこの梶原景時が主役である。最近になって私が彼に注目したそのきっかけは、ある一冊の本、というか小冊子のごときもの、であった。


 

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 これである。Amazonでは買えない。私の実家のある町の、隣町の自治会の有志の方々が、町の歴史等について一冊にまとめたものである。瀬名川、という町は、現在の静岡市の葵区にある、清水区と境を接している町で、何を隠そう、私の実家がある町である。で、この本を私の母親が隣の町内会の知り合いから購入してきたのを、私が実家に帰った際に、発見して借りてきたのだ。

 ここ数年、郷土史、のようなものにささやかな興味を抱きつつあり、先日記事にした通り旧東海道をカブで走ったり、などというのもその一環であるのだが、こんな本を繙く気になったのもまた同じく、であった。だが失礼ながら、どこかの大学の教授さんが体系的にまとめた研究論文などではなく、あくまでも町内会で、あちこちの記録だの文献だのから拾い集めたとおぼしきものをまとめてみた、というものであるから、あまりその内容に期待はしていなかった。

 実際、その内容は本格的な郷土史研究家の方々には物足りないであろうものだった。しかし私は本格的な研究家ではない。ごく最近、なんだか地元の昔のことを調べてみるのも面白いな、と思い始めたばかりの「ニワカ」である。細かすぎず専門的すぎず、わが町の歴史の概観を得るにはちょうどよいものであった。そして注目したのが、「矢射タム橋」という史跡、であった。

 それは、私の実家の前の道を東へ真っすぐ数百メートルいったところにあるのだが、何の史跡か、というと、他ならぬ、梶原景時が、入江一族という地元の侍衆に矢を射かけられた橋のあった場所、である。では何でまた鎌倉幕府の重鎮である梶原景時が、こんな田舎で地侍みたいな連中に攻撃されるようなことになったのか、という話になるのだが、実は、この辺りからが私には興味深いところであった。

 以下、本当は『吾妻鏡』あたりを参照すべきところだが、手元にないので、上記「ふるさと瀬名川」だのウィキペディアだのを適当に参照して、事の次第を簡単に。

 頼朝の死後、幕府内で孤立した梶原景時は、鎌倉を追放され、正治二年(1200年)一月十九日、一族郎党引き連れて京をめざした。しかし幕府(というより景時を追放した御家人達)より梶原一族討伐の命が下っていたのであろう、駿河の国清見関(現在の静岡市清水区興津あたり)で入江一族なる地元の御家人の一党より攻撃を受けた。

 戦いは、今の東名高速清水インターあたりにあった湿地に移動しつつ行われたが、地理不案内のなかの夜戦とあって、戦況は梶原方に不利、西に逃れんとする梶原方を追う形でさらに戦場が西へ移動したところで、武勇で知られた景時の三男景茂が、吉川小次郎との一騎打ちに破れて討ち死にするに及び、長男景季、追っ手を食い止めて父景時一騎をのみ逃れさせる。

 頼朝公より賜った駿馬麿墨(するすみ)にうち跨がりて逃れた景時であったが、瀬名川の集落の辺りのある橋で待ち伏せにあい、矢を射かけられた。景時は矢に当たることなく駆け抜けるが、その先にも待ち伏せがあるのを知り西進を諦め、再び景季ら本隊と合流せんと引き返すも、先の橋でまたも矢を射られる。このときも上手く駆け抜け、やがて景季と合流を果たした。

 ということで、この景時が待ち伏せにあった橋、というのが、前述の「矢射タム橋」である。こんな史跡のあることを、私は全く知らなかった、という訳ではない。確か、小学生のときに、授業の一環として連れてこられた記憶がある。だがすっかり忘れていた。無論、その由来の事などキレイさっぱり記憶していなかった。これはいかんと、またしても前置きが馬鹿馬鹿しいほど長くなったが、早朝、カブでお散歩がてら出掛けてみることにした。




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 我が家からカブで数分。これがその「矢射タム橋」である。本当に、何てことのない住宅地の小さな交差点である。川らしきもの、橋らしきものがみえるが、これはただのドブ川である。この近所を流れる長尾川、及び巴川(ちびまるこちゃんに出てくる川)の川筋は昔とは大きく変わっており、ここを流れていたであろう川も、その変化に伴って失われたと考えられる。残るはこの石碑のみ、である。

 それにしても、なんでまたこんな細道を、景時は逃げ道に選んだのか。そして待ち伏せ側もまた、どうしてここに景時が来ると思ったのか。その答えは、私にとってあまりに意外なものだった。

 上のカブの写っている写真をもう一度御覧頂きたい。交差する道路のうち、左右に伸びているほうの道、これが私の実家の前の道なのだが、この幅4メートルほどの生活道路、これがなんと、昔の街道だったのである。他ならぬ、江戸幕府が整備するずっと以前の東海道、もっと時代に相応しい名前で呼ぶのなら、所謂「鎌倉街道」である。

 まさか、であった。あちこちでかけるまでもない、自分の家の眼の前を、歴史ある古道が走っていたのである。この道の北側に、北街道という通りがあるのだが、そちらが渋滞している時など、この道は狭いながらも東西に真っすぐ抜けていて、抜け道として使うにはいい道だ、なんて思っていたのだが、それもそのはず、である。景時がこの道を選んだのも当然だった。彼はこの道、この鎌倉街道をしか知らなかったのである。

 「矢射タム橋」から逃れ、本隊と合流した梶原景時であったが、味方は数名しか残ってはいなかった。もはやこれまでと覚悟をきめ、死に場所を求めて手近にあった山に入る。途中の湧き水で髪を整え、山の頂に至りて、梶原景時、景季、景高親子は自害して果てた。

 その山は現在梶原山と呼ばれる。なんてことのない、みかん畑やお茶畑のある小さな山ではあるが、山頂は公園として整備されている。近所の石碑だけみて帰るのではつまらないので、そちらにも行ってみた。

 が、またしても長くなってしまったので、『平家物語』の記事なんだか郷土史研究の記事なんだかはたまたスーパーカブの記事なんだかさっぱりわからくなりつつ、次回へ続く。


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