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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 3


 県道396号線 その3・興津、清水港


 小学校6年生の頃、だったと思う。当時の小学生はいうまでもなく「週休2日」ではなく、土曜日には半日授業(所謂はんどん)というものがあった訳だが、その土曜日の午後の自由時間を利用したあることを、私は思いついた。

 「授業が終わって、家に帰って、お昼を食べて、ちょっと休んで、大体2時頃。そして夕方は、大体5時頃には家に帰らなければならない。つまり、自由時間は3時間。この3時間を使って、自転車で可能な限り遠くへいってみよう。」

 24インチホイールの自転車にまたがり、左手には腕時計。当時の静岡市と清水市の境あたり、今でいう葵区と清水区の境あたりの自宅から、小学6年生の私は、国道1号線を西へ向けて走り始めた。往路に1時間半、復路に1時間半。それでどこまでいけるだろうか。

 結局、私はその日、安倍川を渡ってしばらく行った辺り、東海道の宿場でいうところの丸子宿の手前あたりまで行って、帰ってきた。この「初ツーリング」の成功に気を良くした私は、翌週、友人もひとり誘って、今度は国道1号を東に向った。その二度目のツーリングのときの折り返し地点が、




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 ここであった。まさにここまで、私は走ってきた。

 由比宿から旧東海道を辿り、薩埵峠を越えたところを流れる興津川。写真右手が国道1号バイパス、左手が、わかりにくいがJR東海道線である。ここから、道は国道1号線になる。そしてここからしばらくは、旧東海道と現国道1号が完全に重なる、今となってはとても珍しい区間になる。(よって、海岸線の二車線の高架道路は「国道1号バイパス」という名称になっている。ここでは「国一」はあくまでもこちらの昔ながらの二車線道路なのだ。)




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 東海道17番目の宿場、興津宿。実は私、生まれはこの興津であり、まさしくこの写真のあたりである。

 またしても、思い出話。生まれは興津、といっても一歳半までしか興津、即ち父の実家には住んではいなかったので、無論、その当時のことを憶えている訳ではない。しかしそこが「おばあちゃんち」であることには変わりないので、幼い頃にはしょっちゅう、遊びに来ていた。

 旧東海道沿いの、小さな小さな酒屋。それが父の実家だった。古い家だった。多分当時すでに、築後百年ぐらいは経っていたと思う。歴史的建造物、などでは勿論なく、ただただ古い家だった。柱といい梁といい、引き戸といい土間といい、何もかもが、黒く古びていた。真っ黒だった。

 昔の街道沿いによくみられた、典型的な「うなぎの寝床」で、建物の横幅は一間半ぐらいしかなかったが、奥行きの長さといったら冗談のようだった。両隣には似たような家が隙間なく建ち、それで表側と裏側にふたつ、二階があったから、一階には外からの明かりというものは一切入らなかった。暗かった。百年間、陽のひかりをみないその空間には、建物の「黒さ」も相俟って、底知れぬ暗黒が拭い難く染み付いているように感じた。

 表の引き戸を開けると、まずは店があった。私の父方の祖父は、沖縄で戦死している。つまりこの店は、祖母がふたりの息子を育てあげた、孤軍奮闘の場所だった。小さな酒屋、といっても、今の酒屋さんとは随分と雰囲気が違っていた。若い方には多分想像がつかないだろう。暗く窮屈な店のなかに、所狭しと商品が並ぶ、のみならず、ある壁沿いに狭く細長いテーブルがあり、そこに円椅子が幾つか並べてあって、そこが何というか、小さな居酒屋のごときものとなっていた。

 昔の酒屋には、こうした「ちょっと呑める場所」というものがあったのだ。かわきものや焼き魚ぐらいのつまみも出した。しかしそれでも居酒屋ではなく、あくまでも酒屋だから、営業時間は昼間である。これが、酒呑み達には実に都合が良かった。真っ昼間から酒が呑めるのだ。

 だが無論、店の「ランク」としては、ガード下の居酒屋以下、最下層の店だから、やってくる客も、店に相応しい、救いようのないノンダクレばかりだった、と思う。祖母のところに遊びにいくたび、いつも決まった顔ぶれが二、三人、席を占めてコップ酒をなめていた。無論向こうも私たちの顔を知っているから、声をかけたり、頭をなでようとしたりなどしたが、祖母はすぐに私たち子供を奥の座敷に押し込んでしまった。酔っぱらい達に、触らせようとしなかった。

 靴を脱ぎ、土間からよじ登るようにして座敷へ。六畳もあるかどうかという狭い居間。床は不自然に山なりになっていた。そうだ、あの家にはおよそ「平らな床」というものがなかった。居間の奥には、台所と、風呂と、便所。無論、汲み取り式。裏の二階へあがる、ごく幼い頃の兄がおっこちたことのある急な階段。そして、また土間だ。

 その奥は、倉庫になっていた。商品が収められているのだが、電灯というものがなかった。あったのかもしれないが、普段灯すことはなかった。真っ暗だった。恐ろしいほどに暗かった。百年の暗闇が、そこに深く重く沈殿していた。幼い私は、そこを抜けるのが怖くてたまらなかった。それは本能が危険を察知しているような、すくみ上がらせるような恐怖だった。

 それでも勇気を振り絞り、その先にある明るみをめざして私は走った。漆黒のトンネルから飛び出せば、そこには明るい裏庭があった。それは街道からは決してみることのできない、隠された陽だまりだった。隣の家や裏の家との境も定かでないような、そこに住むものたちだけが楽しむことのできる、小さな憩いの場だった。季節の花、片目が病気の犬、そんなものが狭い場所にあふれていた。

 だが私は足を止めない。本当に人のすれ違いにも難儀するような、細い狭い路地が、庭の奥に続いていた。生け垣と板塀の隙間、そんな路地だ。左に一度、右に一度、90度に折れ曲がって、その予感にみちた路地を抜けると、そこには海がひらけた。輝きにみちた、駿河湾のひろがりだった。




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 これが、その路地を抜けたあたりの現在の様子。残念ながら、海をみることはできない。現在海岸線には国道1号バイパスが走っており、徒歩で海岸線に出ることはこの辺りでは不可能である。国道1号線静清バイパス興津高架橋の開通は1979年のことであるから、私が八歳の頃である。写真中央に防波堤があるが、私の記憶ではこの防波堤より右側、写真では公園になっている場所には、テトラポットが並んでいた、と思う。私の父が子供の頃には、砂か砂利かの浜だったはずだ。その面影は、最早どこにも見出せない。

 


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 だが、すこし付近をうろうろしていて、小さな公園をみつけた私は思わず立ち止まった。この、なんだか列車の形を模したような、おかしな遊具。これで遊んだ記憶があった。多分三十年以上も昔のことだが、確かに、私はこれで遊んだ。まだ、ここから駿河湾を眺めることができた頃にだ。

 ああ、何だか思い出に浸ってしまったが、先に進もう。ちなみに、祖母の酒屋は老築化が進んでどうにもならなくなって一度立て替えをした後、人手に渡った。私が高校生の頃に祖母は亡くなり、店を引き継いだ親戚の者も亡くなって、店をやる者がいなくなったからである。残念だが、仕方がないことだ。




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 清見寺、というお寺。かなり立派なお寺なのだが、なにやら工事中のようである。




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 興津を抜け、さらに国道1号を西へいくと、こんなものが。アキハバラみたいだが、「もつカレー」のかれんちゃん、だそうだ。「静岡もえしょくプロジェクト」とかいうもののオフィシャルキャラクターらしいので、興味のある方は検索、検索ゥ(笑) ちなみに、もつカレーというのは、静岡市清水区発祥といわれる所謂B級グルメで、辛めのカレーでもつ煮を和えてあるのか、もつをカレーで煮込んでいるのかわからないが、とにかく、なかなか美味しいものである。静岡市周辺の居酒屋などで食べられるので、こちらにおこしの際には、是非。

 この先にさらに進むとJR清水駅前に出るのだが、もうそろそろ今回のツーリングはお終いにしよう、ということで、道をそれて海岸沿いの国道150号方面、そして清水港へ。




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 清水港にて。何だかこじゃれた雰囲気だが、以前はもっと殺風景だった。東へツーリングに行った帰りには決まって立ち寄り、タバコなんかふかしてカッコつけつつ、オーティス・レディングの例の歌を滅茶苦茶英語で口ずさんだりなんかしたものだが、今はあんまりドック・オブ・ザ・ベイが似合うような場所ではなくなっちゃった。埠頭の先のほうなら、まだ昔ながらの港が残っているのだが、今は立ち入り禁止になっている。どこの港も、昔より、港湾地区の警備が厳しくなっているようである。

 時計をみれば、7時半。そろそろ帰って子供等に仮面ライダーとプリキュアをみせなくてはならぬ。つまらぬ思い出話で終わってしまったが、「道に歴史あり」とでもいったものの一端でもお伝えできていれば幸いである。興津宿の次は江尻宿になるが、そちらも、近いうちに走ってみたいと思います。では。


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